「目標設定」について思ったこと。


目標や目的をしっかり定めることが大事だと、最近よく思う。

とはいえ、毎日の雑務に追われて「自分を見失っている」ような状況では、自分が心から本当に望む目標や目的を見つけることが難しくなる。

ぼくは自分の進むべき(進みたい)方向を見失っていた一時期、目標や目的をあえて定めず、日々、自分の心を見つめることを大事にしていた。他人との接触もなるべく避けていた。その期間があったから、迷いなく目標や目的を定められるようになったようにも思う。

いきなり最終目標を定めるのは難しい。かといって、手頃でたまたま周りから与えられるような目標に向かって進むのも無駄が多い。

たとえば、自分が成績優秀な高校生だとして、親や学校の先生に大学の医学部に進学するように勧められたとする。医者になれば、一生続けられる仕事だし、収入もわるくないし、世間からの尊敬も得られるし…とその魅力を力説され、そうかそうか、と医学部に入るための勉強に精を出す。こういう目標設定だと、自分の「意志」がほとんど抜け落ちてしまっている。一生続けられる職に就きたいのかどうか、収入はどれくらいほしい(必要)なのか、世間からの尊敬を本当に得たいのか(それは本当に必要なのか、そもそも世間からの尊敬とは何なのか)などについて、自分でほとんど考えずに、周りから与えられた目標に向かって努力を続けても、自分が本当に望むものを得られなければ、結局、大きな落胆を味わうことになってしまう可能性がある。

そもそも、目標達成したあかつきに得られるはずだと思っていたのにアテが外れる、ということもある。医者の一生続けられると思ったら、仕事がハードすぎて心身を病んでしまったり、期待していたような収入を得られなかったり、勉強して実践してきた医学が古くなりもっと効果があり本質的な医学が登場して古い理論や実践しか学んでこなかったために世間からの尊敬も失われたり、といった可能性も考えられる。

なんとなく魅力的な目標、というのはあちこちに転がっていて、周りからも気軽に与えられる。それに乗っかったら、たまたま上手くいって、しかもたまたまそれにやりがいを感じて楽しく充実した人生を送れた、ということもあるだろう。でも、そうなるとは限らない。

まずは、自分がどういう人生を生きたいのか。生きている間に何がしたいのか。日々、どんな暮らしをするのが自分の理想なのか。どんな場所に、どんな家に住み、どんな仕事がしたいのか。どんな人と付き合っていきたいのか。どんな人間になりたいのか。この世界に、この世の中にどんな影響(変化)を与えたいのか。どうすれば自分は幸せになり、他人にも幸せや喜びを与えられるのか。

そんな大きなことや大それたことも、たまにはゆっくりした気持ちで考え、思い描いてみないことには、的外れな目標や目的を設定してしまい、遠回りな努力に時間やエネルギーを費やしてしまうおそれがある。

大きく、深く考えたいときは、余計な情報は邪魔になる。SNSのタイムラインをだらだらと流し読みして自分の心と頭がぶれまくった後では、自分の心の声は聞こえてこない。

たまには、ゆったりと、落ち着いて、自分と向き合い、自分の未来を思い描く時間というのはとても大事だと思う。


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by 硲 允(about me)
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