「暮らしの手帖」の「丁寧な暮らしではなくても」というコピーへの賛否から思ったこと。

「暮しの手帖」という雑誌が2020年1月発売の号(第5世紀4号)からリニューアルされ、リニューアル号の表紙に載った「丁寧な暮らしではなくても」というコピーに対して、賛否両論の声がたくさん寄せられたという。

「丁寧な暮らし」という言葉をどう捉えるか…それは人それぞれだろう。そもそも、「丁寧な暮らし」とはどんな暮らしなのか、それに対する具体的なイメージや内容も、人ぞれぞれ異なると思う。毎日家の隅々まで掃除して、非の打ち所がないくらいどこもきれいに整理し、すっきり片付いて季節の飾り付けまでされた部屋でゆっくりティータイムをするような時間と余裕をもてる暮らしなのか、日々バタバタしてあちこち散らかり放題でいろんな人がごちゃごちゃ訪れワイワイしているのが常で、そんな中で仲間との心の交流を大事にしているのも「丁寧な暮らし」だといえるだろうし、家にいるのは仕事から帰って寝るくらいでも、自分が大事だと思う仕事に全力でエネルギーを注いでいるのもまた「丁寧な暮らし」だといえるだろう。「暮らし」と「仕事」をくっきり線引きできるものではないしすべきものでもないと思うし、ぼくの感覚では、生きている時間すべてが「暮らし」である。

「丁寧」というのがまたくせ者な言葉だ。心をこめてゆっくり落ち着いて行うのが「丁寧」なのか。場合によっては迅速に行うことが丁寧さにつながることもあるだろう。人間がもつ時間やエネルギーは有限なので、何に時間やエネルギーを使うかはトレードオフの関係となり、一つのことを「バカ丁寧」にすると、他のことに対する余裕を失ってことも多い。何に自分の時間やエネルギーを充てるか、つまり自分の人生をどう生きるかは、人それぞれの自由な選択によるものであるべきで、自分の自由に、自分の意思で、自分の好みや価値観にもとづいて自分の納得いくようにそうしているのであれば、それが他人から見て他人の定義で「丁寧」であろうが「丁寧」でなかろうが、自分の求める人生を生きている当人にとってはどうでもいいことに違いない。

他人のいわゆる「丁寧な暮らし」に見える暮らしの背後に何があるのかはわからない。雑誌の記事などで写真や文章を見ると、いかにもゆとりがあって優雅に暮らしているように見えても、それは雑誌用に整えられた暮らしの一部分で、誰でも日々の実際の暮らしには物理的、精神的なザワツキやもやもやがあるものだろう。人間の暮らしの一部をどう切り取って、どう編集してどんなイメージで表現するかは、表現者の好みや意図によるもので、そこには自由があるべきで、それを喜んで受け取るか、自分には不要だと判断して受け取らないかは、これまた受け手の自由であるべきだと思う。



by 硲 允(about me)