お弁当と料理

とあるお店で、野菜たっぷりのお弁当がよく売れてそうなのを見た。

最後にお弁当を買ったのはいつだろうか。食べたい(食べられる)お弁当はめったに見当たらないので、お弁当は自分でつくって持ち歩いている。

外食をほとんどしなくなって、食費がだいぶ減った。東京にいた頃は、移動も多いし、しょっちゅう外食をしていたので、それだけでずいぶんお金が必要だった。しかも、今思えば、健康を害するような食事ばかりしていた。ハンバーガーに牛丼、焼き肉定食、化学調味料や添加物だらけのお弁当やおむすび…。外食でも、選びようによってはそれなりに健康を保てると思うけれど、ぼくが好きだったのはお肉と甘いもの…体がいつもだるくて重く、あちこち不調が出ていたのも当然だと思う。

自炊すればよかった、と今振り返って思うが、食に無頓着で、料理のスキルもなかった。たまに料理をすると、食材や調味料を奇抜に組み合わせて、不味い料理ができあがった。買い物に行っても、食材をどう選べばいいのかわからなかった。つくりたい料理を決めてから買い物をしたが、余った食材を使い切るのが下手だった。

自炊の能力は大事だ。ご飯が炊けて、美味しい味噌汁やスープがつくれたら、それなりに満足のいく食事ができる。ただし、シンプルな料理で満足するには食材が大事。新鮮で生命力のある食材を選ぶ目も養う必要があるが、それは経験とともに自然と養われていく。

どれだけいそがしくても、お米を炊いて味噌汁やスープをつくる時間くらいはつくれるだろうと思う。大きな鍋でスープをつくれば、何食も食べ続けられる。出かけるときも、スープジャーに入れて持っていける。家に帰れば、残ったスープを火にかける。一日に数回、沸騰させておけばスープはわるくならない。そんな簡単な料理さえ覚えたら、外食せずに生きていける。ちょっとした手間はかかるが、外食で使ったお金を稼ぐよりも簡単ですぐにできる。

主食であるお米を自分で炊いたこともない、というのは、サバイバル能力を考えても、非常にピンチな状態だと思う。炊飯器がないと炊けない、というのでは心もとないが、ぼくも10年くらい前まではそうだった。土鍋で初めてご飯を炊いたときはちょっと感動した。ご飯は炊飯器で炊くものとずっと思っていたが、火でご飯が炊けることを体験すると、自分の中のなにかがちょっと変わり始める。

土鍋でご飯を炊くには、自分の五感が頼りになる。炎の様子を目で見て、炊けていく様子を目と音と香りで感じる。最初は失敗もし、自分がいかに自分の体の感覚を鍛えてこなかったかを思い知らされた。しかし、がっかりする必要はなく、土鍋でご飯を炊くのに必要なレベルの感覚くらい、すぐに鍛えられる。そして、ちょっとした自信になる。土鍋でご飯が炊けるようになれば、空き缶でも竹でも、水をためられるものがあれば何を使ってでも、ご飯を炊けるようになる。空き缶でご飯を炊く必要があるような事態に直面する可能性は低いかもしれないが、いざという時でも大丈夫、というのは日頃の安心感につながる。

普段の料理は、食べる相手(自分を含めて)を考えながらつくるもので、ずっと外食をしていないと、食べる相手のことを知らず、考えることもなくつくられた料理を食べるという行為に違和感を感じるようになった。料理には心がこもる。どんな心がこもっているかわからない料理を食べるのは、それなりにリスクがある。やっぱり自分で料理できるようになるのは大事だ。

トマト入り土鍋ごはんを炊く。