学校に通うのが当たり前のような世の中で

新型コロナの登場で、学校生活も揺れているようだ。

ぼくが小学生なら、休校になるのは大歓迎で、台風が来たりして「大雨洪水警報」のテロップが朝のテレビの上方で光っているのを見て心が浮き立ったものだった。

学校というのは退屈で窮屈でみじめな気持ちになる場所だった。担任制というのも厄介で、意地悪な人が担任になると、数年間、少なくとも1年間は苦しめられる。翌日、学校に行くのが嫌で、夜寝る前、布団の中でなるべく眠らないようにして時間を過ごしていたことを思い出した。明日が来るのが嫌で、できるだけ時間稼ぎをしていたつもりだったが、どうせ、そのうち眠りに落ちる。翌朝、「今日も来てしまった」という悲壮感とともに目を覚ました。

そんなに嫌なら休むことを考えなかったのかと相方にきかれたが、当時、そういう選択肢は自分の中に持ち合わせていなかった。「義務教育」の「義務」も、学校が嫌でも義務的に行かなければならない義務だと勘違いしていた。この「義務」は当然、保護者が子どもに教育を受けさせる義務のことである。憲法第26条第2項にこう書かれている。
すべて国民は、法律の定めるところにより、その保護する子女に普通教育を受けさせる義務を負う。義務教育は、これを無償とする。
保護者は子どもに教育を受けさせる義務を負うが、子どもは、与えられた学校がイヤならそれを拒否する自由があるはず。

小学生だった当時、「登校拒否」しているクラスメイトがいると、それは異常なことだと思っていたが、朝起きるのもイヤになるくらいの学校に渋々通っていることのほうが異常なのだと、今では思う。そもそも、「登校拒否」という言葉がおかしい。登校するかどうかは、一人ひとりが決めればいいことだ。登校する人、登校しない人がいるだけのことで、選択の問題にしてほしい。登校するのが普通で、しない人は「拒否」しているという構図では、登校しない人の肩身が狭すぎる。

最近は自分の周りでも、登校していない子どもたちが、ちらほらいる。よかったね、と思う。本人が、ちょっと肩身が狭そうなのが見ていて辛い。本来、堂々していていいはずの立場なのに、周りの大人たちは一般的に、「登校拒否」的色眼鏡で見てしまう。登校しないことを選んだだけなのにね。登校した子どもも、登校しなかった子どもも、大人になってしまえば関係ない。それよりも、どんな大人になるか、である。家でぐ~たらしているだけだと、つまらない学校にでもがんばって通っていたほうがまだマシだった、ということになるかもしれないけれど、学校に行かない分、自由な時間がたっぷりあれば、いろんなことができる。その時間で何を経験し、何を学び、何を感じ、考えるか。自分の時間をどう使うか。それは学校に通っていようがいまいが、全員に与えられた問題だけど、学校へ行くと、時間割というものが与えられ、それに従わざるを得ない。それが向いている人は学校もいいかもしれないが、時間割を与えられるのが窮屈な人まで、そのシステムに従わされ、何年もその中で生きるのは窮屈に違いない。自分の時間を自分の自由に「割る」ほうが好きな人は、そうしたほうがいいだろう。

ぼくが嫌いなことのかなり上位の方に、「早く時間が過ぎないかと思いながら時間を過ごすこと」が入る。学校では、そんな時間のなんと多いことか。今ではそんなふうにして時間を過ごすことがほとんどなくなったが、たまにあると、学校時代を思い出す。時間の無駄遣いは、人生の無駄遣い。弁当と放課後が楽しみな学校生活、というのはどんなものか。学校が好きな人は学校に行けばいいけれど、そうでない人まで学校に付き合わされる、というのは勘弁してほしい。

今でこそ、「学校生活」というものに疑問を感じるようになったが、当時は、そうではなかった。そういうものだと思い、何の疑問も感じずに通っていた。疑問はほとんど無意識レベルで感じていたのかもしれないが、自分でどうこうできるものではないという観念に完全に覆いかぶされていたのだろう。それはそれで、かえってラクだったのかもしれない。もっと自覚的に疑問を持ち、不満を言語化できるレベルで感じていれば、学校通いの日々はさらに苦痛だったに違いない。とはいえ、無意識レベルで感じていた感情というのは、自分の深いところで長い年月眠っていて、消化されていないもののようだ。学校時代のことが、時々夢に出てくる。当時はなんとも思っていなかったはずのことに腹立ちを感じるようなことがある。目が覚めて、これは心の毒出しなんだと思う。ブログでこんなことを書いているのも心の毒出しなのだろう。毒は全部出しきったほうがいい。そんな毒物を読まされたほうはどうなのだろう、とも思うけれど、学校の国語の時間に音読させられるように強制ではないので、何か興味を感じたり、共感するところがあったりして、わざわざここまで読んでいただけたのだろう。

自分が嫌だったものをそのままにしておくのは不愉快である。学校に関して、ここでつらつら述べたところで、今の学校が簡単に変わるわけではないが、度々、学校の不満を書いている。最近はちょっとかわった学校も増えてきているようなので、希望が持てる。貴重な子ども時代に、毎日退屈して箱の中に閉じ込められているのは、もったいなすぎる。時間の無駄使い、人生の無駄使いの習慣が身についてしまう。たいての子どもたちは、子どもの頃のぼくと同じように、学校には絶対通うものだと信じ、通いたいかどうかを改めて考える機会が無いのではないかと思う。学校に通いたいかどうか、通うならどんな学校がいいか、そういう質問を先生や保護者が子どもに投げかけることも必要なのではないかと思う。