「学校を辞める」のはあり?子どもたちに多様な選択肢を

先日、外仕事をしていると、「学校を辞める」かどうの、という親子の会話が聞こえてきました。

時代も進んできたもんやなぁ、と思いましたが、時代の流れなのか、その家庭が特殊なのか、とにかく、ぼくが小・中・高校の頃は、「学校を辞める」という選択肢については、考えたことも思い浮かんだことも無ければ、そんな話を身近で聞いたこともありませんでしたが、今となっては、ぼくの身近でも、そう珍しいことではなくなりました。

  • (いわゆる)一般的な学校に行くか
  • シュタイナー学園やきのくに子どもの村学園のような(今は)特殊な学校に行くか
  • 学校に通わずにホームスクーリングにするか
  • 毎日は学校に通わず、時々行くか
そんないろんな選択肢が普通に検討されるようになる日もそう遠くないかもしれません。

いろんな選択肢があるべきだと思うし、その中から誰でも自由に選べるべきだと思います。

一概に一般的な学校と言っても、学校によっていろいろですし、先生もいろいろ、通う人もいろいろ。その中で楽しめて、十分に学べて、人間としても成長できて、通ってよかったなぁとあとから思えるような学校ならいいですが、人によっては、いわゆる一般的な学校で毎日のように過ごすのは苦痛でたまらない、という場合もあるわけです。それなのに、イヤでたまらない学校に通うことを親や教師が強制される学生時代というのは暗黒の日々で、学びのスピードが早く貴重な若い日々を無駄にするのはもったいな過ぎます。

ぼく自身、何の疑問も持たずにいわゆる一般的な学校に通ってきて、それなりにいろいろ学んできましたが、今思うと、ムダに時間を過ごすこともずいぶんありました。まず、日本の学校の一般的な授業では、先生の話を聞くばかりでインプット過多になる、というのがよくないと思います。何に役立つかわからないことをひたすら覚える。頭の体操にはなりますが、どうせなら、役立つことを学びながら頭の体操にもなったほうがいいでしょう。朝から夕方までほとんど座りっぱなしというのも大いに問題だと思います。そんなに座ってばかりだと、頭の働きが鈍くなるし、身体もなまって、かたまって、おかしくなります。座って頭だけ動かしていると、「頭の先っぽ」のほうだけピクピク動いているような感じで、それでも教科の問題は解けますが、身体で考える、というような感覚が身につきません。人生の重要なことを考えるには、頭脳だけではなく、身体感覚や「気持ち」も重要になってきますが、学校の成績ばかり重視される環境では、そういうのが疎かになってきます。

小学校に入学する前に、森の学校のようなところに通っていた子どもが、学校に入って苦労する、という話をよく聞きます。室内に幽閉されることなく自然の中でまともな感覚が育っていれば、まともじゃない場所の異常さを敏感に感知できるのでしょう。

みんなを森に放り出すべきだ、とは思っていませんが、自分に合った学び方、自分の好きな過ごし方、ちょうどいい学びのペース、何を学びたいか、どんな場所で学びたいか、などは人それぞれなので、誰もがのびのびと、充実感や喜びを感じながら学べる環境が用意されている、ということが大事だと思います。

ちょっと試してみて、どうしてもイヤだとか、性に合わないとか、辛すぎて心身に負担がかかりすぎる、とかであれば、学校に限らず、なんでもやめたらいいと、個人的には思っています。自分に合わないところで頑張りつづけてもロクなことがありません。さっさと退散して、自分に合ったところで時間とエネルギーを使えたほうがいいに決まっています。子どもの場合、最終決定権を大人が握っていたりして厄介です…子どもの意思をもっと尊重する社会になっていってほしいし、そうなるだろうと思います。


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by 硲 允(about me)