変化を恐れるときの「バランス」という言い訳について



自分の現状を肯定するときに「バランス」という言葉が使われることがある。「いろんなことのバランスを考えると、これが今のところベストだ」というふうに。

現状、望ましい部分もあれば、望ましくない部分もある。現状を変えると、望ましくないことが減ったり、新たに望ましいことが生まれたりする可能性があるが、現状ですでに得ている望ましいものを失う可能性もあると。だから現状がベストなのだと。

本当にそうだろうか。変化をおそれているだけではないだろうか。

望ましいことを残しつつ(あるいは別の望ましカタチに変えつつ)、新たに自分が望むものを生み出していくことができないか。その可能性を十分に検討したか。アイデアは出し切ったか。常に自問自答したい。

物事の「バランス」と言うからには、全体像が見えていなければ「バランス」は見極められない。「バランス」を見定めることができるほど全体像が見えているかというと、そう簡単には見えない。

現状に完全に満足していない限り、ゆらゆらしながら、自分の望む方向へと少しずつでも動いていきたい。

最高の「バランス」ならいいが、妥協の「バランス」なら揺れ動かして次のバランスを見つけるのがいい。バランスを崩して立ち直れなくなるのは困るが、満足できないバランスを必死で保っているのも面白くない。

自分のことは自分でどうにでも変えていける。自分のことを本気で変える気がないと、他人や状況のせいにする。他人や状況に対しても、自分で影響を与えていける。不平や不満や不安を生み出す暇があれば、自分が望む現実を生み出すための行動や思考や想いを生み出す暇もあるはず。


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