何を食べようが健康な人は健康?自己正当化と怠慢故の極端論について


自然食や健康食品、オーガニック食品…健康的な食べものを常に追い求め、農薬、合成化学調味料、添加物、放射能…人体に有毒に思えるものをことごとく完全を目指して避け…というような日々を過ごしていると、この世の中、毒物があふれかえっているので、精神的に参ってしまう。

外出先で自分の基準を満たすものを見つけるのが大変だし、外食は到底無理。となると、外出は億劫になるし、人間づきあいも大変になる。

ぼくも食べもののことを勉強しはじめた頃は、知れば知るほど、おそろしいものが増え、それまで喜んで食べていたようなものが恐怖の食品に変化した。自然食品店に行くと、「世の中敵だらけ!」という感じで気難しく、青白い顔をして商品を疑わしげに物色している買い物客を見かけることがある。その気持ちはよくわかる。

最近は、ちょっとくらいの毒物を摂取してしまっても排出すればいいや、ともうちょっと気楽でいられるようになった。東京では常に放射能の恐怖におびえていたが、香川へ移住し、大気中や土壌の放射能の恐怖にとらわれなくなったのも大きい。安心・安全な食べものを育てたくて野菜やお米をつくり始めたが、近所で撒かれている除草剤が飛来してくるので、夏はそれを吸いながらの作業になる。毒物をおそれていてはキリがない…なるべく摂取しないようにするのも大事だけど、排出力を強めるようにしよう、と気持ちを切り替えた。おそらくポストハーベストを行っている小麦でつくられたさぬきうどんも、たまに食べると美味しい。

かといって、「何を食べてもいいや」「何を食べようが、健康な人は健康」「ジャンクフード大好きな人でも長生きする人は長生きするんだから」「何を食べるかよりも、気持ちが大事」とまではいかない。

もちろん気持ちは大事だけど、食べものそのものが持つ物理的な力を相殺したり、人体に有毒な食品を無毒化してしまえるほど、自分の「気持ち」の強さに自信はない。

だから、なるべく自分がいいと思うものを食べ、たまに仕方ないときはいいと思わないものも、なるべく「いい気持ち」でいただく。

世の中の言説を見聞きしていると、「出されたものは何でもありがたくいただく」「自分の気持ち次第で、何を食べても健康でいられる」「何でも選り好みせずに食べる」という考えや方針を打ち出している方もいる。一旦は健康志向を徹底したが、徹底することに挫折したことがそういう路線変更を行うケースも多いように見受けられる。「そんなに極端に路線変更せんでもいいのになぁ」と、差し出がましくも思ってしまう。でも、どういう方針をとれば心地よく幸せに日々を暮らせるかは人それぞれだとも思う。とはいえ、食べものの物理的な力はあなどれない。

日本は「和をもって尊しとする」気風が強い。周りのみんなと同じものを機嫌よく食べていたら、確かに「小さな和」は生まれる。でも、どこかしっくりこないまま、みんなと同じものを食べていても完全に心は満たされないし、どこかで無理が生じる。「同じことをする」ことによる「小さな和」ではなく、「それぞれの人間の自己決定権を認め、それぞれの違いを大事にし合う」ことによる「大きな和」を実現したほうが、全員がより自分らしく幸せに生きやすい世の中になるのではないかと思う。


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by 硲 允(about me)