慈善活動や「世の中にいいこと」をしている人が善良な人だとは限らない。

「海のごみ拾いプロジェクト」「世の中に幸せの輪を広げる活動」「ヒーリングで他人を癒す活動」「世の中の不正をなくすための活動」「世の中の真実を広めるための活動」…この世の中、一見よさそうに見える活動や仕事はいろいろあるが、その活動の概要自体が「いいこと」であっても、それを行っている人間が完全な善人で理想的人間であるとは当然限らない。

一見、よさそうなことをしていても、それを行っている人の顔を見ると信用できなさそうなことはよくある。そういう場合、もう少し深く知るとたいてい、「やっぱりな」ということになる。

「世の中にいいこと」は、自分のエゴを原動力としてでもできる。「目立ちたい」「尊敬されたい」「すごい人になりたい」「生きている間に立派な業績を残したい」「自分が偉大な人間であることを認めてほしい」…などなど。そういう方たちは、わかりやすいことに、たいてい、顔に書いてある。でも、もどかしいことに、それを読みとれない人は読み取れないようだ(ぼくも完全に読み取れるわけではないけれど)。

派手に打ち出されたメッセージやイメージだけで判断すると、その奥が見えなくなる。その活動の動機は何なのか、何を目指しているのか、どういう自分になろうとしているのか、実際に日々、どんな行動をどんな気持ちで行っているのか…本心は隠されていることも多いだろう。言葉で「きれいごと」はいくらでも言える。偉大だとされている人の心に響く言葉をたくさん仕入れて、自分の言葉に変換して打ち出せば、いいことを言う人のように思われることが可能になる。

悪行をおこなう悪人よりはいいけれど、善行をおこなう実は不純な動機も混じっている人にはご用心。

人間、自分の力量以上のことをしようとすると、ロクなことがない。力上以上のことに手を出し、自分を力量以上に見せかけている人間はどこか空々しく薄汚い雰囲気が漂う。ぼくはそうなりたくないと思っているが、そうなってしまった人間は自分では気づかないのかもしれない。


【関連記事】

by 硲 允(about me)