新聞と「偏り」


香川に移住したばかりの頃、ご縁のあった方から、購読料を支払わなくていいから、一定期間、とある新聞を届けさせてほしいと言われて届けてもらっていた。1年くらいの期間だっただろうか。時々面白い記事があって読んでいたけれど、ほとんどの記事は読み飛ばしていた。新聞というのは普通、そういう読み方をするものだと思うけれど、資源の無駄が多いなぁと思う。

無料で新聞を届けたい、というのは、どういうことだろう? おそらく、読んでいる人を一定以上の数にキープしておかないと、広告をとるのが難しくなる、というところだろう。そんな「技」を使わないと維持していけないというのなら、その新聞社もかなり崖っぷちで、今までのやり方を続けていては難しいということだろう。

ニュースを知りたければネットで知れるし、新聞でなければ得られない独自の記事は少ないように思う。ニュース記事ではなくてコラムのようなものは、その時のその新聞でなければ読めないものも多く、なかには面白いものもあるが、そういうものを求めるのなら雑誌でもよく、スマホで簡単にニュース記事を得られる時代に新聞を維持していこうと思えば、新聞でなければ読めない、独自取材したニュース記事がもっと必要なのではないかと個人的には思う。

新聞を購読せず、ネットでニュースも得ているというのを聞いて、ある人が「偏ってくる」と言ったが、新聞社のオンライン版のニュース記事はネットで読めるし、一紙だけ読むよりもいろんな新聞社やジャーナリストなどの記事を読み比べられるし、疑問に思ったことやもっと知りたいことなどはすぐに検索できるし、むしろ、新聞を購読して一社か数社の新聞主体で情報を得ているほうが「偏ってくる」リスクが大きいのではないかと思う。大手新聞は、広告主や権力者など、いろんなところに遠慮が働いて、書ける範囲も限られてくる。

情報というのはそもそも、誰かの視点で編集されたものであり、「偏り」というようなものが全くない情報なんていうのは存在しないだろうと思う。どんな「偏り」があるのかを考え、想像したうえで、自分に必要な情報を必要なだけ集め、自分の判断や行動や思考に役立てていくのが大事だと思う。


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by 硲 允(about me)