新聞記事の制限に思う、自由にアウトプットできる場所を持つことの重要性について



ブログのいいところに、一つの記事の文章の長さや文体、写真や動画の位置や量などを、自分の好きに編集できることがあります。

新聞や雑誌に記事を書くとなると、そういうことが著しく制限されてしまいます。

先日、あるイベントで、新聞記者の方が半日取材され、いろんな人に話を聞かれていましたが、出来上がった記事を見ると、地方欄のほんの小さな記事で、イベントの概要と、写真一枚と、参加者一人のコメントの概要のみで、ちょっと気の毒に思いました。取材された記者の方は、半日、現場で過ごし、いろんな話を聞き、もっと書きたいことや伝えたいことがあったのではないかと想像します。ところが、紙面に制限があるので、いつ・どこで・だれが・どうした、というあらすじしか書けないし、記者本人の感想や考えを書くことは求められていないでしょう。

「新聞記事というのは、『中立性』が大事で、記者の感想や考えは要らない」と考える方もいるかもしれませんが、記者をのっぺらぼうにして中立性を装いながら、政府や広告主の意向ばかり気にしながら紙面を編集している新聞が多いというのが現状でしょう。「中立性」を求めるなら、事実かどうかという正確性以外は「自己検閲」せず、いろんな考えや価値観を持った多様な記者に自由に書かせたほうがよっぽどいいのではないかと思います。

話は戻りますが、取材していろいろ話を聞いても、結局、概要と一言コメントしか書けないとなると、どうせ聞いても書けない、ということで聞く姿勢が疎かになってきがちです(先日の記者の方は、明らかに記事にならないような話でも熱心に聞かれていましたが)。以前に受けたある取材では、どんな記事構成にするかを予め決めていたらしく、それと関係のないような話をすると、メモする手を止めるので、話す気がしなくなってきたことがあります。

人の話というのは、何が飛び出すかわからないのが面白いところです。あらかじめ、こんな記事を書こうというのがあって、それにあてはまるような事実やコメントを探して取ってくるのでは、驚きや発見のある記事が生まれにくいのではないかと思います(「取材」という言葉自体、そういう姿勢を感じさせるので、ぼくは「取材」という言葉が好きではありません)。

人間というのは、普段用意しているアウトプットの場に応じて、情報をインプットしたり加工したりするものです。ブロガーの人は、ブログでどう表現しようかと意識的・無意識的に思いながら日常を経験するものだし、小説家なら、日常の経験を小説に生かすことが、常に頭の片隅にあるものだと思います。
アウトプットの場に自由があれば、インプットも発想も自由になりやすいですが、アウトプットの場に自分が望まないような制限がかかっていれば、自分の人生で得た経験をアウトプットしていく意欲自体が衰えてくるおそれがあります。

仕事でのアウトプットの場に制限があり、そこに不満を感じているなら、それを破壊していくか、それが難しいなら、それとは別の場所で自由にアウトプットしていく場所を作っていくのがいいのではないかと思います。