庭で洗濯をしていたときに現れたカエル |
畑仕事をしていると、いろんな虫が現れます。さっきは、鎌で草を刈っていると、小さなマムシが現れ、危うく傷つけそうになりましたが、大丈夫でした。それくらい接近してしまっても、向こうから攻撃してくることは今のところありません。
マムシには時々しか遭遇しませんが、クモ、カエル、ミミズ、蜂、チョウ、てんとう虫、カマキリ、ナガメなど、いろんな虫が畑で暮らしています。名前の知らない虫もたくさんいます。
畑でどんな虫が現れても、意図的に殺すことはしません。いろんな虫がいて、全体で自然なバランスを取ろうとしていると思うので、自然に任せています(今のところ、虫が大量発生したり、野菜をたくさん食べられて困ったり、ということはありません)。
ただ、 草を刈っていて、うっかり虫を殺してしまうこともあります。特にミミズ。草の根元にちょっと刃を食い込ませて刈っているので、地中の浅いところにいるミミズに刃が当たってしまうことがあります。お尻のほうを少し切ったくらいだと、復活するようですが、当たりどころがわると死んでしまいます。
ミミズを見ながら、「人間、生き物を殺傷せずには生きていけない」と、ふと思いました。自分では殺した覚えがなく、菜食主義を貫いていても、その野菜をつくる過程で、自分の代わりに誰かが生き物を殺しているでしょう。土の上を歩けば、知らず知らずのうちに、生きものを踏みつぶして殺してしまっているでしょう。
生き物を殺していることをどれだけ意識しているか、どんな生き物を殺しているか(野菜や果物などの植物も、もちろん生き物です)、どれくらいの数を殺しているか、自分で殺しているか誰かに殺してもらっているか、の違いです。
東京で暮らしていた頃に、何度かお米を買ったことのある千葉の農家さんが、田んぼをトラクターで耕した結果、無数のミミズを殺したことに気づき、不耕起栽培に切り替えたという話を聞いたことがあります。
人間、見えないところで間接的に殺してしまっていることには無慈悲になれても、自分で直接的に生き物を殺すとなると、普通、躊躇するし心が痛むものなのではないかと思います。
そういえば、先日、「いのちをいただく みいちゃんがお肉になる日」という絵本を見ました。
絵本 いのちをいただく みいちゃんがお肉になる日 (内田 美智子 (著), 魚戸おさむとゆかいななかまたち (著), 坂本 義喜 (企画・原案))
これは、食肉センターに勤めて「命を解く」(家畜を殺して解体するという意味)ことを仕事にされていた坂本義喜さんの実話にもとづくお話。
坂本さんは、「みいちゃん」という一匹の牛と、その牛と一緒に育ってきた女の子と出会います。牛の「みいちゃん」との別れを悲しむ女の子の姿に気持ちが揺らぎ、牛の命との向き合い方が変わり、いろんな葛藤が生じます。詳しいストーリーは書かないでおきますが、立派な息子さんの言葉にも心を打たれました。ぼくは「命を解く」ことの実際を知らずに牛や豚や鶏を食べて育ってきましたが、子どものときのこういう本を読んでおくのは大事だなぁと思いました。