自分の声

人間は機械じゃないんだから、役割に縛られると面白くない。

生きているといろいろと役割が生じてくるものだけど、固定された役割ばかり演じていると、演じているつもりが、それが本質的な自分だといつの間にか勘違いしてしまう。

機械的なコミュニケーションが多い仕事を朝から晩までしていると、話し方も声も機械的になってくる。抑揚のない、感情を殺したような声を出してしまうような仕事はなるべく減らしていきたいものだと、一時期よく思っていた。機械なのか人間なのか、一瞬本気で迷ってしまうような声が電話の向こうから聞こえてくることもある。何年も前のことだけど、とあるサービスセンターに電話したら、機械仕掛けのような人間の声が聞こえてきたので、「そんな機械みたいな話し方しないでくださいよ」と思わず言ってしまったことがある。「大変失礼いたしました」と、相変わらず機械のようなイントネーションで謝られてちょっとおかしかった。「まだ機械みたいじゃないですか!」とツッコんで、徐々に人間だった自分を取り戻していただいた。

サービスセンターの電話の方にそんなことを言うなんで、ぼくの精神もだいぶ「きていた」と、今振り返るとそんな感じがするが、でも考えてみると、機械のような声で一日話し続けるほうがよっぽど異常だという気もする。かつて、一日中売り込みの電話を何百本もかけ続けたことがある。自分が発案した商品(サービス)ではなく、どうやら需要はなさそうで、ひたすら断られ続けた。まともにやっていると心が折れそうになるので、だんだん感情に蓋をして、気持ちを込めないで電話をするようにしていると、相手の反応はますます悪くなってきた。そんな仕事を一日中していると、やっぱり自分が狂ってくる。いきなり電話をかけた見ず知らずの相手ととにかくうまく話さないといけないので、そんなことをずっとしていると、オフィスから帰りの電車の中で、誰にでもいきなり話しかけられるような状態になっていた。実行には移さなかったが。時間の多くをどう過ごしているかに応じて、自分が簡単に変化してしまうことを感じた。

自分の本当の声は、どこにあるのか。今、自分らしく自分らしい声で話しているな、と感じられることがある。何か(誰か)を知らず知らずのうちに演じていると、その声は相手の奥まで届きにくい。この人、なにかを演じているな、と思ったら、警戒心を抱く。ラジオとかYouTubeとかでも、すっと入ってくる声と、そうでない声がある。すっと入ってくるかどうかは、その声の持ち主に好意を感じるかどうかもあるが。

東京から香川に移住してから、安心して聞ける声が聞こえてくることが増えた。店に行っても、店のおばちゃんの素(す)の声が聞こえてくる。店の人と客との素の会話。最初の頃、そんな声を聞いているだけで、精神的にけっこう癒やされた。都会はせわしなく、表面的な効率を求められ、機械仕掛けになってしまいやすいが、地方には心の余裕と有意味な無駄が残されていることが多い。幼稚園や保育所へ行き、5歳くらいの年齢の子どもたちの声を聞くと、生きた心地がすることがある。飾らず、作為の無い声や言葉は、それだけで他人の心を癒やす効果があるように思う。最近、この情勢で、幼稚園や保育所へ行く機械はめっきり減ったが、たまに行くと、子どもたちは相変わらず元気だ。毒された大人たちの事情は、子どもたちの平和な世界に入りきれていないことを確認し、ほっと安堵する。