雑記帖に書き続ける

ブログのタイトル、「珍妙雑記帖」にしといてよかったね、と相方が言った。雨水飲むとか…。

たしかに、雑記帖にしておいてよかった。何でも書ける。雨水を飲む話も書けるし、畑のことも書けるし、食べたもの、買ったこと、考えたこと、想ったこと、日常のちょっとしたひとコマの写真…なんでもありの世界。

なんでも書けるという自由。そういう自由な場所をぼくは必要としているようだ。自由に書く。自由に話す。話す場合、自由に話してもいいんだけど、独り言でない限り、相手ありきなので、あまり自由過ぎるのは相手にとって迷惑になることもある。もうその話、聞き飽きた、とか、興味ない、とか、疲れた、とか、自分ばっかり話すな、とか、いろいろあるだろう。

自分のブログに何を書こうが、自分の自由。読むほうも、何を読もうが自由。その時々で、興味のあるもの、読みたいものだけを読めばいいし、誰にも強制されないし、制止もされない。お互い自由。

一応書いておくと、だからといって、話すよりも書くほうがいいと言っているわけではない。話すのも楽しい。最近は話す楽しみも前よりわかってきた。書くようになって、話すことへの理解も深まったように思う。書くのと話すのは、また違う。書くように話すのはおかしいし、話すように書いているようでいても、話すのとは自ずと違ってくる。

雑記帖なので、何を書いてもいいはずなので、なるべく自分が書きたいことを書きたいと思っている。書きたくないことは書かないが、毎日更新することを決めていると、そこまで気が乗らずにパソコンの前に向かうこともある。結局、書き始めるとのってくることが多いが、書き終えてもいまいちな気分のこともある。

毎日書きたいことを書き続けるには、書いてばかりでは具合がわるいようだ。毎日、自分がしたいことをいろいろしていると、書きたいこともたまってくる。ぼくは自分が実行したことを書くのが好きらしい。新しいことをしたり考えたりすると、書いておきたくなるし、それを書くのも楽しい。だからといって、書くために何かをする、というのも、本末転倒だという感じがしてくるので、したいからする、というのがいい。といっても、書く場所があることが、何かをするモチベーションになることも多い。料理にしても、せっかくならブログに書き残しておこう、と思うと、ちょっと凝ったことをしたり、盛りつけをきれいにしたくなったりする。ブログを毎日更新することを初めてから、日々の行動が、全体的に積極的になってきた。自分にとって新しいもの、未知のことへの興味や関心も少し高まってきた。油断すると、自分を甘やかして、日々の暮らしが惰性的で単調になってしまいやすい。新しいことをするのが好きなわりに、何かを開始するときの腰は重い。「ディーゼルエンジン型」なので、いざ開始すると、急に勢いづいて、疲れきったりどこか体を痛めるまで止まらなくなることもあるけれど…。

雑記帖なので、何を書いてもいいはずだけど、ブログという形式にとらわれてしまいやすいことも自覚している。自分のブログのフォーマットで文章や写真を掲載する、ということが念頭にあると、やっぱりそれに引きずられる。そこで自分が過去に書いてきたパターンにも引きずられる。どんなフォントを使うかも影響している。この頃は、ワードで書いてから、ブログの編集画面にコピペして書くようにしていると、前までと書いているときの感じがずいぶん違うのを感じる。Bloggerの編集画面で書くと、インターネットに接続されている場所で書いているわけだけど、そういう意識がどこかにあるらしい。インターネットでつながった誰かに向けて書いている、という意識が自分の中にあるらしい。それをわざわざ意識しているわけではないのに、知らず知らずのうちに意識してしまっていることは、なかなか興味深いことでもある。ブログを書くときに限らず、そういうことはあるのだろう。頭の中で考えるときにしても、自分がどこにいて考えるかによって、何を考えるかが違ってくる。同じテーマで考えるにしても、自分の部屋で考えるのと、公園に行って芝生の上で考えるのと、カフェでコーヒー片手にバックミュージックや近くの席からの話し声がある中で考えるのとは、違ってくる。自分で自分の頭をコントロールしているように見えて、自分以外のものの影響を自分が思う以上に受けていることは案外あるのかもしれない。だから、自分の内側だけではなくて、定期的に自分の外側にも目を向けて、自分の内と外との関連、外から内への影響について思いを巡らしたい。一人で旅に出ると、新鮮な自分が見えてきたりすることがある。日々、誰と接するかによっても自分は形づくられている。

ブログは形式上、タイトルを付けるという特徴にも影響を受けやすいと思う。タイトルをつけるとなると、何か一つのテーマで書こうとしてしまいやすい。それはそれで、どの記事を読もうか選ぶ際、読み手には便利な機能だと思うけれど、それによって文章の面白みが削がれてしまうのは面白くない。たまには、タイトルの付けようがないと思うようなものも書いてみようと思う。

話があちこちへ行くような文章も面白い。一つのテーマで、論理的に、しっかりとした構造の文章を書こうとすると、その枠組にはまろうとする意識が働く。結局、ありきたりな枠組みにはまって、自分の考えが広がらないのでは面白くない。論理が破綻したようなところに自分の本当の思いが潜んでいるようなこともあるはずだ。自由に脱線できたほうが、本当のところにたどりつく、ということはあるだろう。カッチリしたものよりも、即興的なものに最近は惹かれる。自分がつくるもの、書くものにも、もっと自由を与えていきたい。大事なのは、心の自由さかもしれない。心が自由であれば、つくるものも自ずと自由になる。誰かに与えられた枠組みがあることで、技術が磨かれたり、発想が生まれたりすることもあるけれど、そればかりでは息苦しくなってくる。たまに、というより、日常的に、自分が自由になれる場所がやっぱり必要だと思う。そういう場所は、人によって違う。路上かもしれない、ノートの中かもしれない、街なかの秘密基地かもしれない、木や粘土の中かもしれない。ぼくはとりあえず、ブログで好きに文章を書くなかで、それなりの自由を感じる。これをやめると、精神的にも身体的にも調子がわるくなるだろうと思う。たまに休むとリフレッシュしてさらに書きたい気持ちが高まるが、基本的には毎日書くのが自分には合っているようだ。毎日歯を磨かないと気持ちわるいのと同様に、毎日ブログを書かないと落ち着かない。書きたいことを特に思いつかないときでも、とりあえず何か書く。歯を磨くのが面倒くさいときでもちょっと頑張って磨くのと同じように。