JIKOMAN & TAKOMAN

まずは自分一人で満足する、というのが大事だと時々思うことがある。

「自己満」というやつだ。自己満、というのは悪口で言われることもあるが、自己満で何がわるい?と思う。まずは自己満。その先に他己満(!?)。TAKOMANがあってようやく
JIKOMANが生じる、というのでは心細い。自分ひとり、シンプルに一人の人間、MANとして満足できれば心が安定する。

JIKOMANとTAKOMANについて考えていると、すぐにSNSのことが連想される。あれはTAKOMANの世界に引っ張られる道具であるように思う。「いいね」とか「LIKE」とか、他人の承認や同感が得られて自分も喜んだり安心したりする、という仕掛けが用意されている。そういう場所に毎日、毎時間、毎分、繰り出していると、頭の中がそういう世界に染められてしまう。

他人の承認や同感や共感、理解などがあって、ようやく安心したり喜んだりする、というパターンにはまりこむと、それらが得られないときの不足感や不満足感を感じやすくなるのではないかと思う。SNSは使いようによっては便利な道具ではあるが、JIKOMANとTAKOMANのバランスにおいては、使い方に気をつけないと、心の不満が高まり、日々の楽しさや喜びを削がれてしまうおそれがあるように思う。

長期間出かけていたりして、SNSをしばらく見ていないと、心が平和になることがある(スマートフォンはもたないようにしていて、手持ちのフィーチャーフォンはメールもインターネットも使えないプランなので、家のパソコンでしかネットに接続できない)。だからといって、家に戻ってからSNSをやめるところまではいかず、便利な面もあるので結局使い続けているわけだけど、たまにはSNSから離れてみると、SNSが自分に与えている影響がわかりやすくなる。

自分が何をすればJIKOMANを得られるのかを、自分でよく研究するのは大事だと思う。TAKOMANがJIKOMANを高めることもあるが、TAKOMANの比重が大きすぎたり、TAKOMAN頼りになりすぎると危うくなる。JIKOMANだと思われるかな…という不安がよぎってきても、JIKOMANで何がわるい?と開き直っていれば強く生きられる。開き直りが大事だ。他人が何を思う、他人にどう思われる、なんていうのは、二の次、三の次、くらいに思っていても、それでも案外他人のことは気にしてしまうものだ。だけど結局、みんな実は自分のことで精一杯、ということが多い。他人のことに余計に口出しする人ほど、実は自分のことで精一杯どころか自分の世話すら自分でまともにできかねているというケースも多いのではないかと思う。自分のことが見えていなければ、他人のことも見えにくい。自分のことを直視したくないから、他人のあら探しをして自分をごまかす。他人を批判することで、自分のことは棚に上げて一時の安心感を得る。他人を見下げることで、ちょっとした安心感を得る。そんな他人に煩わされるのは勘弁だ。もちろん、そんな他人ばかりではないから、世の中捨てがたく、まだまだ生きていたいと思える。