書き言葉と話し言葉、思考と言語に関して。

思考は言語に左右される。

この頃、文章の書き方をいろいろ実験中。ブログの文章にも和歌山弁や讃岐弁が入ってきている。話し言葉っぽくなってきている。

ぼくは和歌山で生まれ育ち、大学に入るまでは、和歌山弁だけで話していれば、何不自由なかった。だけど、東京の大学では、周りがだいたい、いわゆる標準語っぽいアクセントで話していて、一人だけ和歌山弁で話し続けるのはなんだか「浮いた」感じがして、居心地わるく感じた。かといって、標準語っぽいアクセントで話すのも違和感があり、どっちつかずの言語でやりすごしていた。大学生の頃は、プロの通訳者になることを目指していたので、標準語をマスターしたいという事情もあった。通訳の仕事において、和歌山弁を貫き通すわけにもいかない。例えばイギリスからやってきた研究者の講演を日本語に通訳するとして、そのような場面で、フランクな和歌山弁で訳したらおかしいに違いない。冒頭、「どうも。今日は呼んでもろて、ありがとうやで」とかは、なしだろう。標準語を話し慣れていないと、日本語に通訳する際、日本語を話すにも頭に負荷がかかってしまうので、普段から標準語の練習をしておいたほうがいいと思い、さらに和歌山弁から標準語に寄っていった。便宜的に「標準語」という言葉を使っているけれど、何をもって「標準」とするのか疑問があるので、「標準語」という言葉にも違和感がある。「これが標準だ!」と誰かが決めて、あるシチュエーションや場所においてそれを押し付けるようなことも気に入らない。標準語、というよりも、東京弁、関東弁、というほうが落ち着く。かといって、東京にもいろんな言語を話す人がいるので、東京弁、というひと括りで始末してしまうのもどうかと思う。関東弁、というひと括りにしてしまうのも、さらに大雑把だ。

和歌山弁といったって、和歌山県全体を見わたすと、いろんな言語がある。和歌山市と田辺市、新宮市では、ずいぶん違う。小学生の頃、和歌山市から田辺市に引っ越して転校した。新しい学校に行くと、みんな「やにこー」を連発していて、最初は戸惑ったが、文脈から考えると、「とても」という意味らしい。「やにこー上手い」とかいう。「やにこー」は、すぐに聞いてわかるようになったが、自分で使えるか、というと、また別の段階である。英語のveryを使うよりも、田辺の「やにこー」を使うほうがぼくにとってはハードルが高い。この「やにこー」を自分で違和感なく口にできるようになるには、田辺で暮らした約1年では足りなかった。言語には、それが使われる場所やその場所における暮らしや文化、歴史と深く関わっている。その全体へと自分が馴染んでいかなければ、その言語を違和感なく使うのは難しい。

東京で10年くらい暮らしたが、それでもまだ、馴染みきれていなかった。東京で聞こえてくる言葉を使うことにも違和感があった。東京で暮らしていた最後の頃にやって、ようやく気がついた。東京弁っぽい言葉で話そうとしているから自分が不自由になっているというか、自分が自分になりきれていないのではないかと思った。かといって、それまで東京で付き合いのある相手に対して、いきなりこてこての和歌山弁で話し始めるのは唐突すぎる感じがして、やっぱりどっちつかずの感じだった。

子どものときに、母語をしっかりマスターする前に別の言語を話す国で暮らしたりすると、どっちの言語も中途半端で、思考力も育ちにくい、というような説を聞いたことがある。それも一理あると思う。ぼくは日本語で話すほど自由に英語を話せない。相手に日本語が通じなくて英語で話す場合、だいたい英語で考えながら話すわけだけど、英語で持ち合わせている表現の外には思考も出づらいような感覚がある。思考が日本語に切り替わって、これは英語でなんと言えばいいんだろう、と思うこともあるけれど、英語で話す際は、日本語で話すときにすんなりと出てくる微妙なものが出てきづらい。それは、それぞれの言語の特性も影響しているところがあるだろう。翻訳の仕事で日本語と英語を行ったり来たりしていると、英語というのは日本語よりも数学的な感じがすることがよくある。それは、自分が英語を使い慣れていないことも多分にあるだろう。学校やテキストで習った文法的に正しい模範的な英語から崩していくには、実地での実体験を積み重ねる必要がある。学校英語では、”Are you ~?”ときかれたら、”Yes, I am.”とか、”No, I’m not.”とか答えるところから学んでいく。しかし実際には、もっと変則的な返事がいくらでもできる。一昨年、英語でおこなわれたとあるワークショップに参加したとき、ぼくは他の参加者から、”Are you a student?”ときかれた。とっさに”I look younger.”と答えたらウケた(笑いは世界共通語!?)。”No, I’m not.”ではキツすぎる感じがするし、普通に答えても面白くないので、とっさにそんなことを口走ってしまった。久しぶりに英語を話す機会で、最初は訥々としか出てこなかったが、この頃には5日ほど経っていて(一週間ほど泊まりがけのワークショップだった)、この返しができたときは、ちょっとは頭が英語に慣れてきたと思って内心、うれしくなった。一週間も英語で過ごしていると、面白いことに、頭が日本語から英語にがらりと切り替わり、一人でいてなにか考えているようなときでも、英語になってきていた。とはいえ、自分の英語は日本語ほど自由ではない。このまま英語ばかり話し、英語でだけ考える暮らしになったとしたら、たしかに、自分の思考に制限がかかってしまうだろうと思った。

言語を失うことは、言語というツールを失うだけにとどまわらない。思考も失われる。感情や、感情につながるなにかも失われるかもしれない。その言語に張り付いた、歴史的、文化的なものも。それ以外にも、その言語と馴染み、一体化したあらゆるもの。他の言語で代替できるところもあるだろうけれど、完全にはそうはいかない。それがわかっているから、歴史的に、相手(他国)の言語を奪うということがおこなわれてきたのだろう。

自分の言語を自分で守ることは、自分を守ることでもある。

自分の言語とは、自分の言葉とはなんだろう? それもよく考える必要がある。

自分が生まれ育った場所で身につけ、日々の暮らしの中で使ってきた言葉。文章や映像の中から拾い集めてきた言葉。他人の中から出てきて発見した言葉。自分の中に取り込み、使っているうちに、なんだって自分の言葉にはなり得るだろう。最初は知らなかった言葉でも、繰り返し使っているうちに、自分に馴染んできて、違和感が減っていく。それは筆記用具や食器などを使うときにも似ている。だけど、自分らしさ、というものは、道具によって簡単に変えることはできないところもある。万年筆が似合う人もいれば、鉛筆やクレヨンが似合う人もいるだろう。プラスチック食器よりも木の器が似合う人もいる。人間は道具に働きかけてそれを用いるが、逆に、道具が人間に働きかける、という作用もあるだろう。何十年も万年筆を使い続けた人は、万年筆の似合う人間になっているかもしれない。子ども向けにつくられたプラスチック食器を何十年も使い続けてきた人は、いきなり渋い漆器を使っても不似合いになるかもしれない。どんな言葉を使うかは、どんな人間になるか、でもあるかもしれない。どんな言葉を使うかに対して、自覚的であるべきだろう。

日々の暮らし、日常で口にしている言葉には、生活上の必要性から生じた奥行きや複雑さや機微があるように思う。文語では表しにくい微妙なものを口語が楽々語ることがある。一方で、口語では表しにくい心境を文語が静かに語ることもある。その両方をもっと自由に行き来しながら文章を書いてみたいと最近思っていて、それが面白くなってきている。