「教える」「導く」立場の人間と、「ありのままの自分を認めること」について

先日、「ありのままの自分を認め、他人に明らかにできるか」というようなことを書いたが、「教えること」「他人を導くこと」を仕事にしていると、なおさらそれが難しくなる傾向があるように思う。

大学生の頃、ぼくは塾や英会話学校で教えるアルバイトをしていた。英会話学校で中学生に英語を教えているとき、学校の教科書に載っているjerseyという単語がわからなかった。知らないことを認めてしまえばいいのに、さすがに中学校レベルの単語を知らないのはマズいだろう、ということで白状できず、上手くごまかして辞書で調べた(生徒は見抜いていたと思うけど。そんな先生イヤだ!)。

その後、同じ英会話学校(英語以外の教科も教えている)で、数学の先生が急に来られなくなってぼくがピンチヒッターで苦手な数学を教えることになった。相手は中学生。案の定、生徒に質問されてもわからなかった。英語のときのようにごまかすことも不可能なので、「ちょっと待って、解説見てみるから」と言って、解説を読んでみたが、それでもわからない。あきらめて解説書を生徒をわたし、自分で読んでもらったら、わかったらしい。「すごいねぇ!」と言った(どんな先生や!)。生徒はぼくをバカにするでも、蔑むでもなく、何事もなかったかのように勉強を続けた。これでいいのだと妙に確信した。

たまたまたその時に「教える立場」にあるからといって、相手より何でも知っていて、何でもわかっているわけではない。特に最近は、ネットで調べれば膨大な情報が出てきて、「教わる立場」の人のほうが情報に通じていたり、より正確な知識を得たりしていることが増えているように思う。「教える立場」の人間にますます求められるようになってきていることは何だろうか? 教わる側の人間の学びを加速させたり、学びを深めるきっかけを与えたりすることだろうか。知識に関しては、ネットで調べて簡単に出てくるような表面的なことではなく、その人の経験に基き、その人の身体と心の活動を通して得られたものは参考になることが多い。

「教える側」「与える側」の話や行いが信頼なるものかどうかを判断する際、「知ったかぶりをしないかどうか」「等身大の自分を認め、それを相手にも明らかにし、なおかつそこから成長していこうとする意志があるかどうか」が参考になる。

ぼくは前から腰や背中の調子がわるく(最近はだいぶよくなったけれど)、いろんな施術者のお世話になってきた。何度か施術を受け、少しずつよくなっても、あるとき、これ以上はなかなかよくならない、という段階が訪れる。そのときに、「自分の実力ではここまでです」とはっきりと言ってくれる方もいて、その方の施術ではこれ以上はよくならないのか、という残念な気持ちと同時に、それを認めてしまえることに感動し、その方たちに対する信頼がますます高まった。収入のことを考えると、だらだらと施術を続けたほうがお金儲けにはなるのに、潔く「ここまでです」と言える施術者は少数派ではないかと思う(お金やお客さんがあり余っている、というふうでもなかった)。

その反対に、自分の施術が他のどの方法よりも優れていると盲信し、他をよく知りもせずに否定する施術者もいる。最初の段階で、他の施術法について話してみるとよくわかる。よく知りもせずに顔を曇らせ、自分のほうがすごい、と言う施術者のお世話にはならないのが身のためだと、ぼくは思っている。

自分の等身大、自分のありのままを認められないと、「すごそう」に見せかけている相手に騙されてしまいやすいように思う。何事も、まずは自分から…!


by 硲 允(about me)
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