心の中の「生け垣」を取り払える世の中にしたい。ロバート・キャンベルさんのインタビュー記事を読んで

朝日新聞(2018年8月31日朝刊)に載っていた、ロバート・キャンベルさん(日本文学研究者、国文学研究資料館長、東京大学名誉教授)のインタビュー記事を興味深く読んだ。

ロバート・キャンベルさんは、「テレビでもおなじみ」だそうだが、ぼくはテレビを観ず、存じ上げなかった。

キャンベルさんは最近、自身が同姓愛者であることをブログに綴られた。「勇気をもらった」「カミングアウトをやめようと思っていたけど考え直してみたい」といった多くのメッセージが届き、共感が生まれているという。

キャンベルさんは、このブログを書いたあとのことについて、こう語られている。

一方で、僕自身は関わりを持てる範囲が広がるんじゃないかなという予感はあるんです。以前は無意識に自分の中に、外からの衝撃を和らげる「生け垣」のようなものを作っていたかもしれない。その心の中の膜が1枚とれたような感じで、今後の出会いでは、色んな話をもう少し深くできそうだと感じます。

心の中の「生け垣」・・・その高さはいろいろだけど、誰しも心の中に築いているものだと思う。

多くの人と共通しない特性があったり、共通しないものをもっていたり、共通しないところがあったりする人ほど、この世の中での生きにくさを和らげようと強固な生け垣を築くものだと思う。

ちょっとしたことでも、生け垣を作るきっかけになる。たとえばぼくは砂糖が食べられず、みんなが甘いものの話で盛り上がっていても楽しく入っていけない。甘いものを勧められたり、甘いものを食べに行こうと誘われても断らざるを得ない。断ればいいだけの話なのだけど、断られたほうはいい気がしないことがほとんどなので、あらかじめそういうシチュエーションになるのを避けようとすると、「生け垣」が生まれてきてしまう。

人間の多様性をもっと受け入れ、認め合える世の中になれば、心の「生け垣」を作る必要なく、誰しももっと心地よく生きられるようになるだろうと思う。

日本社会は性的少数者に対して排除的か?という質問に対するキャンベルさんの分析も見事だと思った。

いいえ、必ずしもそうではない。日本ではLGBTの人たちを積極的に排除はしない。ただその代わりに言挙げさせず、触れることもしない、目の前に現れないでほしいという空気があると思います。今までうまくやってきたので現状維持でいいじゃないかという人もいますが、僕は違います。様々な情報や知識が常に流れる時代なのに、日本では性的指向や性自認については「泥(なず)んでいる」、つまりそこだけ池の水が流れていないようです。

日本人は「みんなと同じだと安心する」とよく言われる。そして、みんなと同じじゃない人が目の前に現れることを恐れているのだろう。とはいえ、当然、完全に「みんなと同じ」人間なんてどこにもいない。それぞれ違って当然で、違っているのに、いつの間にかつくられた「標準」「当たり前」「常識」に自分を合わせてきたのだろう。表面的に多くの人が満足しているように見えても、本来の自分を発揮できないでいると、小さな不満やフラストレーションが蓄積する。それぞれの人が本来の自分を発揮しつつ、お互いを認め合えるほうが余程、全体の幸福につながるはずだと思うが、一気には変われない。

これからの時代、一人ひとりが、自分をもっと本質的に表現し始めるだろう。それをお互いに認め合い、受け入れ合える精神的な成熟も進みつつあるように思う。


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by 硲 允(about me)