子どもの頃は、電化製品が好きで、家に新聞が届くと電気屋さんの折り込みチラシばかり見ていたが、電化製品の少ない暮らしの快適さに目覚めてからは、一つずつ電化製品を手放していった。
大学生の頃は部屋にテレビを置いていたが、通訳の勉強で衛星放送のニュースを観るためだった。とはいえ、めったに観ないのに、高い視聴料を払い続け、今思うともったいなかった。
通訳者を目指すのをやめてからはテレビが必要なくなり、町の「あげます」掲示板でもらってくれる方を探して、無料でお譲りした。
冷蔵庫に食べものを入れておくと常温より長持ちすることが多いが、当然、永久に保存できるわけではない。ところが、一旦冷蔵庫に入れると安心してしまい、どこに何が入っているのか忘れて、結局、食べず終いになってしまうことがよくあった。
冷蔵庫なし生活になってからは、腐りやすいものをすぐに食べきらないといけなくなったので、かえって、食べものを無駄にしてしまうことが減った。
冷蔵していないと、暑い時期には食べものがすぐに発酵する。わざと発酵させて保存する発酵食品をつくることも増えた。発酵に親しむことで、消費(味)期限にかかわらず、舌とにおいで判断してものを食べるようになった。
最近は家で魚を食べなくなったが、魚を食べていた頃は、食べたいときに買ってきて(氷ももらってくる)すぐに調理した。どうしても冷やしておかないといけないようなものをいただいたときは、近所のスーパーで氷をもらってきて、クーラーボックスに入れて簡易冷蔵庫をこしらえる。
冷たいものを常食(飲)しないのは、身体にもよさそうだ。昔は飲みものでも生ぬるいものが嫌いだったが、生ぬるいものが標準になると、いつの間にかそれが当たり前になる。この夏は常温の水にレモン果汁を入れた飲み物を部屋に常備してたくさん飲んだ。
普段、料理は一食分しかつくらないので(冬のスープは何食分も一気につくるが)、おかずを温め直す必要はない。
問題はご飯で、電子レンジ離れした最初の頃は、冷や飯というのはちょっと惨めな感じがしたが、慣れると温かくなくても美味しく食べられるようになった。土鍋やせいろを使って温めてみたこともあるが、器に入れたまま温めると器まで熱くなるし、ご飯が器にくっつくし、時間もかかるので、結局、普段は温めずに食べるようになった。ご飯は通常、1日に一回、3食分炊く。1日に一回食べられる温かいご飯が特別に感じられるのもいい。
便利さはいいこともあるが、気をつけないと人間を怠慢にする。炊飯器がない今、急いで食事をしたいときは、すぐに茹であがる素麺やパスタを食べるようになった。それで特に不自由はしない。
ご飯は炊飯器で炊くものと、子どもの頃から思い込んでいた。だから、土鍋で初めてご飯を炊いたときは、それが「すごいこと」のように思えた。土鍋でご飯を炊くには、ちょっとしたコツが要る。玄米を炊くのと、白米を炊くのとでは、水加減や炊き方が結構違ってくる。毎回同じように炊けるわけではなく、それがまた面白い。たまに失敗はしても、食べられなくなるほどの大失敗には至らない。
ご飯を土鍋で炊き始めた頃、相方は最初から上手だったが、ぼくは上手に炊けるようになるまで、ちょっとかかった。思い通りに炊くには、炎の大きさや湯気の出方を目で確認したり、香ばしくなってくる匂いを鼻で確認したり、フタをあけずに土鍋の中の音を耳で聴いたり、身体のいろんな感覚を総動員する必要がある。ぼくは自分の感覚がなまり切っていることを痛感させられた。
鈍った感覚も、日常的に訓練すれば、案外回復するものだ。今では焚き火で竹の筒に入れたご飯が炊けるようになった。数年前なら、竹ごと燃やしてご飯をパーにしていたことだろう・・。
ゴーーという大きな音はイライラさせられるし、床やあちこちにプラスチックがぶつかる音も攻撃的で不快だ。臭いというのは、掃除機の後ろの方から出てくる空気に臭いのこと。
それに、大きくて邪魔になる。
(前までお世話になっていたのに、こんなに悪口ばかり言って掃除機さんには申し訳ないけれど)
今は、ほうきとちりとりと雑巾で掃除をするようになった。ほうきで床を掃く音はなかなか心地よい。和紙のちりとりは床にぴったりと合って、ゴミを入れるのが簡単でストレスにならない。カーペットは掃除機が必須かと思っていたが、ほうきでも案外きれいになることを知った。
かわいいほうきは見えるところにかけておいても景観がわるくならないし、すぐに手に取れて気軽に掃除を始められるのもいい。
最初の頃、たくさんためてしまった衣類を一度に手洗いで洗濯するのは大変だったが、慣れると大して疲れないし、なかなか楽しくもある(始めるまでちょっと億劫だが…)。
洗濯機は汚れがたまってくるが、たらいで手洗いすれば洗濯機の汚れが気にならないのも気持ちいい。
手で洗うと、水の濁り具合から、何がどれだけ汚れているかがよくわかる。洗濯機の機能がいくら発達したところで、汚れのとれ具合を自分の目で確認しながら、素材ごとに力加減を変えて洗える手洗いに技術的に敵わないだろう。
エアコンは電気をたくさん使うし、部屋は涼しくなるが地球は温めるのでなるべくお世話になりたくないが、今年はエアコンさんのおかげで夏を快適に乗り越えることができた。
いずれはエアコン無しでもいける場所・家で暮らしたいと思っているが、今の拠点では、無理をし過ぎないことにした(無理をし過ぎると続かないし、どこかにしわ寄せが来る)。
【関連記事】
by 硲 允(about me)
テレビ
テレビは昔から、好きでもあり嫌いでもあった。面白い番組もあるが、くだらない番組でも惰性でダラダラ見てしまう魔力がある。大学受験の頃から、テレビは「敵」だった。大学生の頃は部屋にテレビを置いていたが、通訳の勉強で衛星放送のニュースを観るためだった。とはいえ、めったに観ないのに、高い視聴料を払い続け、今思うともったいなかった。
通訳者を目指すのをやめてからはテレビが必要なくなり、町の「あげます」掲示板でもらってくれる方を探して、無料でお譲りした。
冷蔵庫
学生の頃、寮の狭い部屋に、通販で購入した大きな黄色い冷蔵庫が届いた。冷蔵庫というのは結構な騒音を出すことを、そのとき初めて知った。台所と寝室が別々だとほとんど気にならないと思うけれど、ワンルームで寝る前にごぉごぉ言う冷蔵庫はちょっと困りものだった。その騒音にもそのうち慣れたが、冷蔵庫はいつもほとんど空っぽだった(食堂のある寮で、キッチンがなくほとんど自炊しないのに、なぜ大きな冷蔵庫を購入したのだろう・・)。冷蔵庫に食べものを入れておくと常温より長持ちすることが多いが、当然、永久に保存できるわけではない。ところが、一旦冷蔵庫に入れると安心してしまい、どこに何が入っているのか忘れて、結局、食べず終いになってしまうことがよくあった。
冷蔵庫なし生活になってからは、腐りやすいものをすぐに食べきらないといけなくなったので、かえって、食べものを無駄にしてしまうことが減った。
冷蔵していないと、暑い時期には食べものがすぐに発酵する。わざと発酵させて保存する発酵食品をつくることも増えた。発酵に親しむことで、消費(味)期限にかかわらず、舌とにおいで判断してものを食べるようになった。
最近は家で魚を食べなくなったが、魚を食べていた頃は、食べたいときに買ってきて(氷ももらってくる)すぐに調理した。どうしても冷やしておかないといけないようなものをいただいたときは、近所のスーパーで氷をもらってきて、クーラーボックスに入れて簡易冷蔵庫をこしらえる。
冷たいものを常食(飲)しないのは、身体にもよさそうだ。昔は飲みものでも生ぬるいものが嫌いだったが、生ぬるいものが標準になると、いつの間にかそれが当たり前になる。この夏は常温の水にレモン果汁を入れた飲み物を部屋に常備してたくさん飲んだ。
電子レンジ
電磁波の危険性を知って以来、電子レンジは恐ろしい機械に見えるようになり、引っ越しを機にお別れした。普段、料理は一食分しかつくらないので(冬のスープは何食分も一気につくるが)、おかずを温め直す必要はない。
問題はご飯で、電子レンジ離れした最初の頃は、冷や飯というのはちょっと惨めな感じがしたが、慣れると温かくなくても美味しく食べられるようになった。土鍋やせいろを使って温めてみたこともあるが、器に入れたまま温めると器まで熱くなるし、ご飯が器にくっつくし、時間もかかるので、結局、普段は温めずに食べるようになった。ご飯は通常、1日に一回、3食分炊く。1日に一回食べられる温かいご飯が特別に感じられるのもいい。
炊飯器
炊飯器のメリットの一つに、タイマー機能がある。朝起きる時間にご飯が炊けていたらたしかに便利だが、タイマー機能は失敗に終わることもある。「~時頃には帰宅するだろう」と思ってタイマーを仕掛けておいても、帰るのが遅くなり、何時間も保温状態になってご飯の味が落ち、電気もムダに使ってしまった、ということがよくあった。便利さはいいこともあるが、気をつけないと人間を怠慢にする。炊飯器がない今、急いで食事をしたいときは、すぐに茹であがる素麺やパスタを食べるようになった。それで特に不自由はしない。
ご飯は炊飯器で炊くものと、子どもの頃から思い込んでいた。だから、土鍋で初めてご飯を炊いたときは、それが「すごいこと」のように思えた。土鍋でご飯を炊くには、ちょっとしたコツが要る。玄米を炊くのと、白米を炊くのとでは、水加減や炊き方が結構違ってくる。毎回同じように炊けるわけではなく、それがまた面白い。たまに失敗はしても、食べられなくなるほどの大失敗には至らない。
ご飯を土鍋で炊き始めた頃、相方は最初から上手だったが、ぼくは上手に炊けるようになるまで、ちょっとかかった。思い通りに炊くには、炎の大きさや湯気の出方を目で確認したり、香ばしくなってくる匂いを鼻で確認したり、フタをあけずに土鍋の中の音を耳で聴いたり、身体のいろんな感覚を総動員する必要がある。ぼくは自分の感覚がなまり切っていることを痛感させられた。
鈍った感覚も、日常的に訓練すれば、案外回復するものだ。今では焚き火で竹の筒に入れたご飯が炊けるようになった。数年前なら、竹ごと燃やしてご飯をパーにしていたことだろう・・。
掃除機
昔から掃除機の音と臭いが嫌いだった。ゴーーという大きな音はイライラさせられるし、床やあちこちにプラスチックがぶつかる音も攻撃的で不快だ。臭いというのは、掃除機の後ろの方から出てくる空気に臭いのこと。
それに、大きくて邪魔になる。
(前までお世話になっていたのに、こんなに悪口ばかり言って掃除機さんには申し訳ないけれど)
今は、ほうきとちりとりと雑巾で掃除をするようになった。ほうきで床を掃く音はなかなか心地よい。和紙のちりとりは床にぴったりと合って、ゴミを入れるのが簡単でストレスにならない。カーペットは掃除機が必須かと思っていたが、ほうきでも案外きれいになることを知った。
かわいいほうきは見えるところにかけておいても景観がわるくならないし、すぐに手に取れて気軽に掃除を始められるのもいい。
洗濯機
洗濯機は、香川で暮らし始めた2014年から一度も使用していない。最初の頃、たくさんためてしまった衣類を一度に手洗いで洗濯するのは大変だったが、慣れると大して疲れないし、なかなか楽しくもある(始めるまでちょっと億劫だが…)。
洗濯機は汚れがたまってくるが、たらいで手洗いすれば洗濯機の汚れが気にならないのも気持ちいい。
手で洗うと、水の濁り具合から、何がどれだけ汚れているかがよくわかる。洗濯機の機能がいくら発達したところで、汚れのとれ具合を自分の目で確認しながら、素材ごとに力加減を変えて洗える手洗いに技術的に敵わないだろう。
無くしたいけど無くせないもの
去年まで、古民家で夏でもエアコン無しで暮らしていたが(昼間は涼しいカフェなどに避難していたけれど)、今年の夏の暑さは異常で、エアコンのある離れに避難した。エアコンは電気をたくさん使うし、部屋は涼しくなるが地球は温めるのでなるべくお世話になりたくないが、今年はエアコンさんのおかげで夏を快適に乗り越えることができた。
いずれはエアコン無しでもいける場所・家で暮らしたいと思っているが、今の拠点では、無理をし過ぎないことにした(無理をし過ぎると続かないし、どこかにしわ寄せが来る)。
【関連記事】
by 硲 允(about me)