『禅とジブリ』(鈴木敏夫 著)を読んで。「オリジナリティ」と、禅の削ぎ落とされた世界について

『禅とジブリ』(鈴木敏夫 著)を読んだ。



スタジオジブリのプロデューサー、鈴木敏夫さんと、三人の禅僧との対談で、面白く読んだ。

東京・世田谷区の龍雲寺の細川晋輔住職が、鈴木さんに「似る」ということについて訊ねる。それに対して、鈴木さんは、「オリジナリティ」についての宮崎駿監督の言葉を紹介する。

宮崎監督もいろんなものに影響を受けていて、影響というのはいわば真似るということだけど、宮崎監督は「俺がわからないように真似ろ」と言っているという。真似は真似でも、直接的なものが多いという。宮崎監督は、「作るということは、誰かからバトンをもらうんだ」という言い方もしているらしい。

ものをつくる上で、誰かからの影響や「真似」という問題はついてまわる。あからさまな「真似」は盗作にもなりかねない。誰かからの影響がもろに出ている作品も、未熟で二番煎じの感を否めない。誰かの影響を受けつつも、それがあからさまにわからないくらい、その人自身のものになり、そのうえでその人らしさを発揮するには、たいてい、かなり時間がかかるし、多くの鍛錬が必要となる。

人間、誰しも誰かからの影響を受けていて当然で、自分の全くのオリジナリティだと考えるのはおごりだろう。「バトンをもらう」という表現には、作り手としての謙虚さと、先人への感謝の念が感じられる。それがない作品は、いくら一見独創的に見えても、人の心を潤すものにはなり難いように思う。


話は変わり、臨済宗円覚寺派管長の横田南嶺さんのお話で、『臨済録』にある「屙屎送尿(あしそうにょう)」「著衣喫飯(じゃくえきっぱん)」「困(こん)じ来たれば即ち臥す」という言葉を紹介されている。「大便小便を出すこと」「服を着ること・ご飯を食べること」「疲れたら寝ること」という意味で、禅のすべてはこれだと書かれているらしい。

細川住職によると、それを体感させてくれるのが修行道場で、修行を終えて世間に出ると、「空腹状態」でいろんなものを吸収したくなったという。

横田管長は、次のように語っている。

我々禅僧は禅の削ぎ落とした世界にずっと留まって、それで幸せだというのではだめなんですよ。削ぎ落とした世界の基本を忘れず、この現実の世界に生きなくてはならない。これが、大事なところなんですね。

横田管長は、最新の科学にも目配りし、AI(人工知能)のシンポジウムで講演されたりもしているらしい。

このくだりを読んで、ぼくが香川に移住して1年目の暮らしを思い出した。来る日も来る日も田んぼの草刈りをし、それ以外は上の「屙屎送尿」「著衣喫飯」「困じ来たれば即ち臥す」くらいの暮らしだった。

生きている間にこんな暮らしができてよかった、と大げさではなく思うくらい、これはこれで幸せな暮らしだったが、ここに留まっているだけではいけない、という想いも生じてきた。しかし、この暮らしが基本だという思いが常にある。田畑の土を踏まない日が続くと、自分の感覚が頼りないような気がしてくることがある。自然の中に身を置いているときの感覚を忘れずに、人工的な世界にも出ていくことが大事だと感じている。

田畑で植物ばかりを相手にしているのはラクだ(身体的に厳しいことは時にあっても)。しかし、この世の中をもう少しまともにしていきたければ、人工の世界にも関わっていく必要があるのを感じる。人工的な世界で、そこのルールや常識に従って生きれば波風が立ちにくいが、その世界の支配者に都合のいいだけの人間にはなりたくない。行きつ戻りつ、自分の持ち場を常に探りつつ、これからもいろんな世界と関わっていくのだろう。


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by 硲 允(about me)
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