手を使う

畑仕事を初めて、手先が器用になった。最初の頃は、小さな種を蒔くのもちょっと苦労していたけれど、だんだん慣れてきた。

最近、織り物や縫い物や編み物を始めて、手先の動きが違ってきたのを感じる。最近は毎朝、綿のTパックになた豆やローズマリー、ホーリーバジル、ケツメイシ、藍、トウモロコシの皮などいろんな茶葉を入れて煮出しているが、茶葉を入れるときの指の動きの自由度が前よりも増してきた。

人間、手があり、手が動くと、日々、手を使っていろいろしているものだけど、現代の日本のような環境では、その動かし方がずいぶん単純になっている。ものを持ったり、扉やドアを開け閉めしたり、スイッチやボタンを押したり、キーボードを叩いたり…。それほど細かくない作業は、テキトーに手指を動かしてもどうにかなってしまうけれど、細かい作業をするとなると、それに適した動きをもっと真剣に考えるようになり、脳と指が連動して学習していく。

たまには指がこんがらがって絡まりそうになるようなこともしてみると、手指のいい学習になりそうだ。

ぼくはどうも、力任せでなんでもやろうとするクセがあるようだ。うまくいかないと、すぐに力んでしまうが、うまくいかないものは力んだところでうまくいかない。そういうときこそ、余計な力を抜いて、効率よく身体を使わなければならないのに。ギターも下手なうちから一気に上達を目指したのが災いして、指を痛めてしまった。その経験に懲りて、縫い物や編み物は、手指の疲労が蓄積したり痛みを感じたらなるべく休めるようにしている。

子どもの頃から、手指を複雑に使うことをしておけば、手指を使ういろんなことの学習速度が上がるだろうと思う。昨年訪れた、とある保育所では、子どもたちがマフラーを編んでいて、びっくりした。4歳くらいになると、大人ができることは何でもできる、という話を聞いたことがあるが、編み物などもちょっと教われば、すぐにできるようになるのだろう。ぼくも幼稚園の頃からピアノを習い始め、最初は鍵盤が重たくて、指も開かないし大変だったが、あっという間に慣れていった。大人になってから手指を酷使する新しいことを始めると、関節を痛めたりしやすいが、子どもの頃の身体はもっと柔軟なのだろう。

学校教育にしても、身体を鍛える科目として体育があるが、それ以外は、先生の話を聞くばかりで、身体はほとんど置き去りで、座って鉛筆や消しゴムを使うばかりでは、身心のバランスが偏ってくるように思う。授業中に椅子から立ち上がって走り出すと問題児扱いされるようだけど、それがまともな感覚ではないと、誰が言い切れるだろう。

身体がよどむと、頭もよどむ。どうもやる気がでないときは、ちょっと手を動かして簡単なものをつくってみるだけで、意欲が湧いてくることがある。


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by 硲 允(about me)