「習い事は習う側が主体であるべき」

「さをり織り」を考案された城みさをさんの著書を読んでいると、習い事は習っている本人主体であるべきだ、というようなことが書かれていて、その通りだと思った。

習い事というと、ぼくは幼稚園の頃から小学校4年生くらいまでピアノを習っていた。

幼稚園の先生が弾くオルガンの音に感動したのが発端だった。はじまりは自分主体だったが、おそらくたいていの習い事がそうであるように、ピアノのレッスンも、先生主導で進められていった。どんな音を奏でたいのか、どんな曲を弾きたいのか、何を表現したいのか…そういうことはほとんど考えず、毎週の課題曲を日々練習するのが精一杯で、いつの間にか、ピアノを弾くのは楽しいことではなく面倒なことになっていった。

少しだけ教わっていたピアノのある先生に、何の曲を弾きたいか質問されたことがあった。それまで教わっていた先生にはそんなことをきかれたことがなかったので、かなり戸惑った。少し考えてみたけれど、弾きたい曲は一曲も思い浮かばなかった。今思えば、弾きたい曲もないのにどうしてピアノを習っているんだ、という感じだけど、そういうものだった。結局、小学生の男の子が好きそうな曲を先生が考えてくれたのだろう、幽遊白書というアニメのテーマソング(好きではなかった)や、アラジンのテーマソング「A Whole New World」(これは好きだった)などがそのときの課題曲となった。

今考えると、先生に指定された課題曲を順に弾くだけではなく、自分でいろんな曲を聴いて(図書館に行けば、いろんなCDを借りられた)、好きな曲を見つけて自分の好きに弾くこともしていれば、ピアノを弾く楽しさがもっと続いたように思う。そういうことを考えてもみなかったのは、今では不思議なことだけど、当時は言われるままに練習することしか考えていなかった。

そういえば、テレビや発表会などで、ピアノのプロや上手に弾く人が、腕や顔を大げさに上下して弾くのを見て、ああいうふうに弾くのは恥ずかしいと思い、あんなふうに弾かなければいけないなら、プロになるのはイヤだなぁと思ったものだった。それも今思えば面白い話で、プロのピアノ弾きでも、あんな大げさな振り付けをつけないプレイヤーはいくらでもいる。

「習い事」ではないが、学校のたいていの授業は、教える側主体の極みのようなレッスンといえるだろう(ぼくが受けてきた授業は少なくともそうだった)。先生が教科書に沿って、ひたすら黒板に書きながら淡々と話し、それを1時間か、それ以上、ほとんど黙って座りっぱなしで聞き続けるというのは、苦行のようなもので、我慢強さは鍛えられるかもしれないが、自習したほうが余程、学習効率がいいと思える授業が多かった。

教える側からすると、教わる側主体のレッスンよりも、教える側主体にしたほうがはるかにラクで手間がかからないことが多いだろう。しかし、同じことを延々と繰り返すことになり、面白みはなくなる。教わる側主体にすると、教わる側によってレッスンの内容は左右され、教える側の力量も問われる。指導書に書かれたことをそのままコピペのように伝えるだけでは済まされず、常に想定外のことに対応していく必要がある。そこに面白さがあるのだろうと思うけれど、そこまでするのは熱意がないと難しい。

「教えること」「教わること」は奥が深い。その方法や内容はどうあれ、とにかく教える側も教わる側も楽しく、それを学ぶ楽しみが持続していくなら大成功なのだろう。


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by 硲 允(about me)