かぼちゃの行方

かぼちゃはどんどんツルを伸ばす。畑の土手まで伸びて、車やバイクや散歩の人が通る通路まで行きそうなくらいになっていた。そこまで2本、カボチャのツルが伸びている。それぞれ一つずつ、実をつけている。島カボチャというかぼちゃで、ひょうたん型の可愛い実ができている。通路から丸見えで、ちょっと手を伸ばせば簡単に届くところにあるので、ちょっと気になったが、かぼちゃはツルを動かすと嫌がるし、通行人の良心を信じることにした。

土手かぼちゃが熟してくれるのを待っていたが、1週間以上経ってもまだ若い。幸い、かぼちゃは無事で、やっぱりこの辺りの通行人を疑う必要はなかったと思って安心していた。

ところがある日、2つあるはずのカボチャの1つが消え失せていた。ぼくは呆然とした。この辺りをそんなヤツがうろついていると思うと気持ちわるかった。もう一つのカボチャはツルを動かして、畑のもっと中のほうに隠しておいた。油断しすぎた。信じる者は、救われる。信じる者は、パクられた。たしかに、自分で自分をコントロールできてなさそうな人もこの辺をうろついている。遠くから来てたまたま通りかかった人の可能性もある。腹を立てても仕方がないが、気分はわるい。そんなときは、幼稚園や保育園の子どもたちを思い出す。みんな、もともとはいい人間に違いない。ところが、何かが原因で、他人のかぼちゃをパクっていってしまうようなヤツになってしまう。行為を憎んで、人を憎まず。ちょっと気持ちが落ち着いてきた。アナスタシアというロシアの森で暮らす人がでてくる本によると、植物は盗まれると毒を出すという話が書かれていた。盗んだ人は、盗んだ植物を食べると、毒を食べることになる。でもうちのかぼちゃは多分温厚なので、そこまでのことはしないだろうと思った。それにしても、盗んだかぼちゃを食べて美味しいんだろうか。かぼちゃを盗まれたのは悲しいが、盗まれた人の気持ちが少しわかるようになったと思った。ぼくは何かを盗まれた記憶はあまりない。盗まれるようなものをあまりもっていないからだろうか。自分のお店屋さんの商品を盗まれた友だちのことを思い出した。通行人を信じすぎず、カボチャを隠しておけばよかった。そうすれば盗心を引き出さずに済んだのに。次からはすぐに隠しておこう。

畑から帰って相方に報告すると、草ぼうぼうだから畑で誰かが育てているものだとは知らない人が持っていったのかもしれないと言われ、たしかにその可能性もあると思った。近所の人なら、草ぼうぼうでもぼくがしょっちゅう通ってきているのを知っているが、何も知らずに通りかかった人からすれば、放棄された草ぼうぼうの場所で何やら実ってるぞ!という感じかもしれない。ひょうたん型のかぼちゃなので、かぼちゃだとすら認識しないかもしれない。ハロウィーンの飾りにしようと思ったのかもしれない。真相はわからない。鳥や虫にやられるよりも、人間にやられるショックは大きい。畑から帰って、島カボチャ入りの野菜スープを飲みながら、こんなに美味しいかぼちゃが一つ失われた残念さをしみじみ思った。「このカボチャを食べて農業に目覚めるかもよ?」と相方に言うと、「それはないやろ」とつっこまれた。