『イドコロをつくる』(伊藤洋志 著)を読んで。

『イドコロをつくる ~乱世で正気を失わないための暮らし方』(伊藤洋志 著)という本を面白く読んだ。

イドコロねぇ…これはちょっと最近課題で、図書館の郷土図書コーナ(!)でこの本を見かけて手にとった(著者の伊藤洋志さんは香川県丸亀市出身とのこと)。

イドコロに関する実践と思索が広く深く展開されていて、これを読んでしばらく、ぼくの頭の中は「イドコロ」というテーマでグルグルしていた。今、自分の「イドコロ」はどこか? 今後、どんな「イドコロ」をつくっていきたいか?

手っ取り早くつくれるイドコロの例として、公共の場所が挙げられていた。たとえば、お気に入りの公園を見つけ、公園の中のお気に入りのベンチやテーブルを見つける。ぼくも車で出かけるとき、よくお弁当を食べる公園がある。テーブルとベンチがあって、景色もわるくないのでお弁当が食べやすい。車の中で食べるよりもよっぽど美味しい。

お気に入りの公園を見つける、というのは面白そう。いつもお弁当を食べる公園は、いろんな公園を比較検討して吟味した結果そこに落ち着いたというわけではなく、ほかにも探してみるともっと気に入る公園が見つかるかもしれない。気分によって、いろんな公園の中から選んで行くのもいいかもしれない。たしかに、ベンチ一つとっても、どのベンチに座るかは重要で、景色も居心地も気分も案外違ってくる。

公園は、雰囲気が明るいのが自分にとっては重要な基準になる。家から近場にも時々訪れる公園があるが、雰囲気が暗いのであまり足が向かない。公園が明るい雰囲気になるには、その場所のもともとの雰囲気もあるだろうけど、人がそれなりに訪れているのと、植物が大事に手入れされていることも必要だと思う。人気(ひとけ)があって、みんなそれなりに楽しそうに時間を過ごしている、という時間の積み重ねがその場所の雰囲気をよくしていくように思う。これは公園以外にも言える。

公共の場所といえば、誰でも入ってもいい身近な山もいいかもしれない。香川には数時間で上り下りできる小さな山があちこちにあり、お気に入りの「マイ山」をもっている(所有しているわけではない)人もいるようだ。雨が振ろうが天候がどうであろうが、毎朝その山を訪れて上り下りしないと気がすまない人もいるらしい。それだけ愛着のもてる山が見つかったら楽しいだろうと思う。ぼくも近所に登ってみたい気になる山があるので、近々登ってみよう。

「イドコロ」は複数あるのが重要だという。

人は、様々なイドコロを持っている。自分が居心地よく精神を回復させられる場だ。近況をおしゃべりする友人から家族、趣味の集まりや、街の広場、気に入った公園、あるいは自分一人で楽しめる趣味など各種のイドコロがある。これら一つ一つが、正気を保つことに貢献している。複数あることが大事だ。よく洗脳で使われるのは、洗脳する側と繰り返し会わせ、洗脳しやすくするために対象者を他人から隔離する方法だ。こういうのを防ぐためにも、複数のイドコロを持つことが大事である。(p. 30)

たしかに、イドコロが自分の家ともう一か所しかない、とかいうのはあやういように思う。人間、自分の周りの人や場所から案外、大きな影響を受けている。決まった団体の集まりにばかり行っていると、いつの間にかその集団の価値観や行動パターンや思考形態に馴染んでいきやすい。いろんなイドコロを行ったり来たりすることで、ひとところに引き寄せられ同化され過ぎず、ちょっと引いて見ることができたり、相対的な目を持つことができたりする。とある宗教に熱心な同級生が、その友人が旧約聖書をもらってきたのを自転車のかごに入れてあるのを見て、捨てたほうがいいと言っていたのを思い出した。宗教の指導者たちは、そう教えているのだろう。自分のところ以外の考えに触れられては困るのだろう。あらゆる情報に触れても、結局、自分のところの宗教の考えが一番だ、と信者たちがなる自信がないのだろう。実力のない団体がやるいかにもコソクな方法だという感じがする。宗教は、イドコロを提供することで信者を獲得する、という側面もあるのだろう。話をちゃんと聞いてもらえるイドコロが見つかった、自分を受け入れてくれるイドコロが見つかった、という感じで、実態のよくわからない宗教団体に入ってしまう人も少なくないだろうと想像する。人間、自分の今の状態と似たような場所に引き寄せられていきやすい。本来の自分らしくいられていないと感じるときや、自分が弱気になっていたりやけくそになっていたりするときは、なおさら自分のイドコロに注意すべきだろうと思う。

探しやすいイドコロとしては、お店屋さんもありがたい存在である。ぼくも、ふらっと訪れて、楽しくお喋りしてこれるお店が何軒かある。お店の方と特におしゃべりするわけではないけど、時々訪れて時間を過ごすお店を含めるとけっこう多い。これらのお店がなかったとしたら、日常の彩りがずいぶん失われ、退屈して困ってしまう。家と畑でやることがいくらでもあるとはいえ、出かける場所としてのイドコロがないと心のバランスが崩れてくる、というのがこの頃よくわかってきた。

SNSはイドコロとなり得るだろうか?

ぼくもSNSを使っているが、自分のイドコロだとは思っていない。便利ではあるが、イドコロとしての居心地はどちらかというとわるい。

この本では、SNSについてこう書かれている。

拡大志向で設計されているSNSでは、炎上でも捏造でも注目が集まれば影響力が増す。バトルタイプであれば少々の攻撃にも耐久力があるので、どんどん燃やして求心力をつけてしまう。しかも、それが収入にもなる。一方、地味な人は、注意していてもそういうバトルタイプにエネルギーを吸い取られてしまうため不利だ。SNSは会員制投稿サイトと訳されるが、もはや会員制の良さの大部分が失われてしまっている。(p. 12)

「バトルタイプ」、というカテゴリーが面白くて笑ってしまった。ぼくも間違いなく「バトルタイプ」ではなく地味な人なので、SNSで暴れまわるのは向いていない。気をつけないとエネルギーを奪われたりもらしてしまったりするので、必要最小限の使用を心がけている。

そもそも、ぼくは物理的に体ごと行けるイドコロのほうが心地よさを感じるのだということが最近よくわかってきた。ネット上のイドコロはどうも落ち着かない。

このブログもイドコロだろうか? ここはネット上だけど、居心地はいい。誰でもウェルカムだけど、発信は自分しかできないようにしている。コメント機能は閉じている。コンタクトフォームはあるけど。自分のイドコロを自分が心地いいようにちゃんと守る、というのも大事かもしれない。

SNSについて、こうも書かれている。

速度の早いSNSは、コンセプトを長持ちさせるよりも消費して摩耗させるほうが得意だ。そこに巻き込まれすぎずに、できれば静かに染み出るように知られていくほうが望ましい。イドコロをつくり、育てていくためには適正速度を守ろう。もしインターネット世界にイドコロをつくるならば、その点を注意していくことが大事だ。うっかりバズが起きてしまいそうになったら消すぐらいの慎重さが求められる。「バズったら宣伝」が当然と考えてはいけない。「バズってしまったので消します」を選択肢に入れるべきである。(p. 40)

この意味では、このブログはうまくいっているように思う。一時、ブログでそれなりの収入を得ようとがんばっていた時期もあるけど、バズらせるのとか好きじゃないし、面倒な人が寄ってくるのも避けたい。そういうがんばりはやめて、「仲間を増やすブログ」をテーマにしてマイペースで好きに楽しく書いていくと、なんだかうまく回り始めた。

何事も「適正速度」というのが大事なのだろう。適正速度を守って、無理せず、マイペースで、なるべく楽しくして、自分がその時々に気が向くところに出かけていれば、心地よいイドコロがいつの間にか増えていくように思う。