第二言語としての英語学習

第二、でも第三言語でもいいんだけど、母語として英語を身につけたのでない限り、母語と同程度に自由に新しい言語をあとから身につけるのはなかなか(かなり)難しい。そこを目指すとしんどくなるし、無理がある。よく言われることだけど、日本の学校での英語教育は、細かいことばかりやりすぎだという感じがする。それで、間違いがこわくなって、すっと言葉が出てこなくなる。単数・複数を間違ったり、三人称単称の動詞にsを付け忘れたりすると、減点されたりバツをつけられたりする。いざ英語で話す必要があるときに、そんなことを頭の中でごちゃごちゃ考えているうちに何も言えなくなってしまう。

世界のあちこちから参加者が集まって共通言語が英語だったワークショップに参加したときに、そういうことを改めて思った。大学の受験英語では、けっこう難しい英単語をいっぱい暗記するが、非ネイティブ話者同士だと、難しい単語は相手に通じなかったりする。簡単な単語で伝えたいことを伝える技術が大事になる。正確な英語でなくてもいいから、自分の言いたいことをなんとか伝えようとする態度と心意気がなければコミュニケーションは乏しくなるが、間違いをおそれていると、なかなか積極的に言葉が出てこなくなる。

細かい文法はどうでもいい、と思っているわけではないが、両建ての学習が必要だと思う。正確な文法をきちんと学び身につけるのと同時に、正確でなくてもいいからどんどんアウトプットしていく練習の両方がなければ、実践で使える言語にはなりにくい。ぼくは大学に入るまでは、ひたすら机の上での勉強を続けていたが、それだけでは当然、英語をある程度読み書きできても、しゃべれる能力はあまりつかなかった。大学でESS(英語研究会)に入ってディスカッションやディベート、スピーチ、観光案内や演劇などをして、英語を口から出す練習を重ねることで、しゃべる能力も少しずつついてきた(それでもやっぱり日常で使わない限り、よっぽど練習しないことには限界があるが…)。当時は通訳者になることを目指していて、通訳の練習もしたが、誰かが話したことを訳すのと、自分の言いたいことを言うのはまた違う。英語を読めるようになりたければ読む練習が要るし、話せるようになりたければ話す練習が要る。できるようになりたいことを直に練習する必要がある。日本の学校の英語の授業を受けているだけで英語を話せるようにならないのは当然のことだと思う。実際、英語を自由に話せる先生は少ない。ギターを弾けない先生が教えても生徒がギターを弾けるようにならないのと同じように、英語を話せない先生に教わって生徒が話せるようにはならない。

日本はいまだに西洋への憧れのようなものがあるのか、英語を勉強して話せるようになったことを得意に思う傾向も強い。これも英語のコミュニケーションでは邪魔になる。言語はただの道具である。道具を持つことで得意になったりひけらかすのはみっともない。どう使いことなすかが大事なのだと思う。ぼくも学生時代はむきになって英語を勉強していたので、自分の英語の能力に対するプライドのようなものはそれなりにあったし、今もそのなごりが残っているけど、英語に対する執着はかなり手放すことに成功したように思う。むしろ手放しすぎて、今では必要に迫られたときしか英語に触れなくなり、これはこれでまずいと思うことがよくある。

普段、英語を話す機会はほとんどないが、英語を勉強しておいてよかったと思うのは、ネットで情報収集するとき。調べものによっては、日本語だけでは十分な情報が出てこないことがよくある。一時、英語でのリサーチのしごともよくしていたので、ネット検索での調べ方のコツをそれなりにつかんだのも役立っている。英語の情報をてきとうにつまみ食いして訳して書いているような記事もあるが、あやしいと思ったら原典にあたれるのも助かる。玉石混交の情報の大海の中でサバイヴするには、日本語以外の言語を読み取れる能力はとても役立つ。学校教育で、話す練習があまりできないとしても、せめて、学習している言語で自分に必要な情報をリサーチする練習をしておけば、その言語をすぐに実践で役立てられるものになる。使わなければ、何のために勉強しているのかわからなくなるし、モチベーションも得られない。ネット検索にしても、それなりに練習しないと、自分が必要な情報を効率よく探すのは難しい。そういえば、情報リテラシーという授業があったけど、何をしたのか全然覚えていないし、情報リテラシーがついた覚えもない。ネットで過剰な情報が安易に得られるようになり、真意の疑わしい情報に翻弄されやすい今の時代、情報リテラシーはますます大事な能力だろう。

世界各地で争いが絶えないけど、国境を越えて、個人同士が仲良くすることが大事だと、そのワークショップで思った。友だちがいる国に爆弾を落としたいとは誰も思わないだろう。結局、そういう単純なことだと思った。国を越えた個人同士のコミュニケーションが圧倒的に足りていない。英語の学習において、英語がコミュニケーションの道具だという認識も足りていないように思う。