学校のよかったところ

日本の学校について、よくないと思うところをいろいろ書いているけど、よかったところも書いてみようと思った。あくまで、自分の体験の範囲で。

まず、多少の多様性だろうか。家庭や家の周り以外の人間と接触する機会になった。人間を知り、理解するうえで、いろんな人との接触は有益だと思う。先生にしても、いろんな人間がいた。お手本にしたいような人は限られていたけど。学校の先生は、先生以外の仕事を経験したことのない人が多いように思うけど、他の世界でもいろんな経験をしてきた先生がもっといるといいなとよく思う。「いい」学校に進学して、「いい」大学に入って…と、それが望ましいコースだという思考パターンに触れる機会がなかった。

自分が出会ってきた先生の行動であっと思うようなことはあまり思い出せないが、小学校のときの担任の先生が、ぼくが競書会で銀賞をとったときに、返却されてきたその作品を見て、これは金賞をもらうべきだと言って抗議してくれて金賞に格上げされたときのことを時々思い出す。金賞になったのは特別うれしいことではなかったけど、審査会で銀賞だと決まったものに対して抗議して金賞に変えてしまう先生の行動がかっこいいと思ったし、そんなことがありなんだと驚いた。権威に対して従順になりがちな学校の世界で、その先生のその行動はぼくにとって、ひときわ輝いていた。

いろんな人間との接触、ということでいうと、同級生や先輩、後輩との関わりもあった。気の合う友だちも少数ながらいれば、なるべく接触したくない相手もいたけど、そのなかで、どういう人間とどう付き合っていけばそれなりに平和に過ごしていけるかの技術のようなものは身についた。世間で生きていると、いろんな人間がいて、それなりにパターンらしきものがある。若いうちに、自分なりのパターンの見分け方と対処方法を身につけたことで、後々の苦労は少なくなったかもしれない。

学校の授業で頭に入れたことで、今も頭の中からすぐに取り出して役立てられることは限られているけど、勉強はそれなりに頭の訓練にはなった。漢字を覚えたおかげで本を読めるようになった。算数のおかげでお金の計算ができるようになったし、ものをつくるときの長さや大きさの計算にも役立っている。歴史は興味がなかったので、ほとんど頭に入らなかった。物理や化学も興味がなかったので、授業中はさっぱり意味不明で、退屈に耐える訓練は積まされた。学校で英語の勉強が必須になっているおかげで英語と出会い、英語の勉強の面白さに目覚めて一時期、熱中できた。

小、中、高校で12年間もある。そのわりには学んだことば薄っぺらいように思えてならないけど、学べてよかったことももちろんある。今思えば、もっと実用的なことを学べたらよかったとも思う。野菜やお米づくりとか、家の建て方とか、健康の保ち方や病気の治し方とか、衣服のつくり方とか、自分が本当にしたいことを見つける方法とか、たのしく健康に、意義を感じながら生きるための基本的なことも学べればよかったけど、そういうのは学校の役割じゃないと、今の学校制度を考えている人たちは思っているのだろう。数学の難しい計算とか、カエルの解剖とか、その後の人生で扱うことのない劇物の実験とかは、必要だと思う人だけがやればいいと思うし、他に大事なことが抜け落ちているように思うけど、なぜか、やりたくもないカエルの解剖を無理やりさせられて、なぜか先生は喜々としていた。

結局、学校のことを書き出すと、ダークサイドに行ってしまう。このへんで強制終了、ということで。