やらされてる感

昔から、「やらされてる感」が嫌いだった。

学生時代も、学校で配られた参考書はどうもやる気がしなかった。高校の英語の授業では単語帳が配られたが、それが気に入らなかった、というわけではなく、与えられたものは「やらされてる感」があるので、本屋で自分の気に入る単語帳を探して買ってきた。中身は似たようなものなのだけど、自分で選んで買ったきたものはやる気が出る。まぁ言えば、ひねくれ者、というところだろうか。

仕事でも、締め切りに追われると「やらされてる感」が高まってくるので、締め切りのある仕事はなるべく早めに終わらせるように心がけている(心がけてはいても、締め切りギリギリになることは多いんだけど…)。

「やらされてる感」を感じるときは、そこに何か、自分なりの意味合いというか意義を考えて付加すると、「やらされてる感」が薄れることがあるが、それには限界もある。

「やらされてる感」のあるアウトプットは、楽しさやワクワク感が伴わない。このブログは、誰かにやらされてるわけではないが、毎日更新を目指しているので、たまには気が乗らなくてもパソコンに向かうことがある。そういうときに書くと、ろくなものが書けない。書いているうちにノッてくることもあるが、そうでないこともある。そういうときは、無理にテンションを上げてもおかしなことになるので、日々の基礎トレだと思ってひたすら淡々と書く。淡々と書き続けているうちに、そのうち調子が上がってくる。人間、それなりに浮き沈みが誰にでもあるのだろう。沈んでいるときは、無理して浮かび上がろうとせずに、淡々と日々を過ごすと、そのうち浮いてくる。時間の問題だと思っていると、焦らなくて済む。

文章でも絵でも音楽でも何でも、「やらされてる感」があると、つまらない。自分がやりたくて、好きで、楽しいし、その気分になっているからやる、というのがいい。そうでないときに何かをせざるを得ないこともやっぱりあるわけだけど、そういうときは無理せずひたすら淡々と…そのうちノッてくるのを待つ。淡々とやっているうちにでも、技術はついてくる。技術がついてくると、面白くなってくる、ということもある。

「やらされてる感」を感じながらやってるかどうかのセンサーが前よりも敏感になってきたような気がする。特に自分が取り組んでいる分野では。この人楽しんでるなぁ!というのは、見てて気持ちがいい。世の中、そういう表現は案外少ない。頑張ってやっているものは多くても。頑張るよりも楽しむことのほうが、案外難しいのかもしれない。力めば頑張れるが、楽しむには力を抜く必要がある。力を抜いて、気は抜かず。だけど、気合が入りすぎが続いても疲れてくる。自分の体力と気力に応じて。

日々のあらゆることに「やらされてる感」が伴う、というような場合もあるかもしれない。やりたくないことばかりして、やりたくないことループに陥ると、そういうことになってくる。そういうときは、やりたくないことを一つずつ、どんな小さなことでも、どうにかして減らしていく工夫を続けていくと、ちょっとはマシになってくるのではないかと思う。誰かに何かを誘われて、あまり気が乗らないのに断りづらいとか…。そういうのは全部断ってしまえばすっきりして、時間もできて、だんだん、気が乗らない誘いは減ってくる。自分が望まないことを無理やりさせようとするような人に気に入られる必要はないし、そういう人の気分を害したり怒らせたりしてもたいしたことはない。相手が望まないことを無理やりさせようとするほうがおかしい。そういう無理強いは連鎖する。お互い、「やらされてる感」から解放されたほうがいい。お互い、自分が意義を感じ、本当にやりたいと思えることばかりして、それで上手く世の中調和して回っていくことは不可能ではないと思う。自分だけ得しようとする人が力を発揮しすぎている。遠慮がちな人は犠牲を強いられやすい。和を尊ぶ人は、和を乱す人のペースに巻き込まれてしまいやすい。遠慮がちな人こそ、もっと厚かましくなって自分のペースを守らないと、「やらされてる感」から解放されるのは難しい。ぼくも遠慮がちなほうなので、いきなりど厚かましくなるのは難しいのは知っているが、それなりの厚かましさも必要だと思って、地味に訓練している。