個人のブログの面白いところは、好き勝手に書けるところだと思う。書くほうにとっても、読むほうにとっても、それが面白い。
好き勝手と言っても、ウソを書いたり、誰かを傷つけるようなことを書くとそれなりの結果が生じるわけだけど、ネット上に書いた文章は誰の目に触れてもおかしくないということを常に意識し、誰かが読んだときに生じる気持ちや行動を想像してその結果を受け入れる心づもりをしておけば、それなりに自由に書ける。
SNSというのは、その名の通りSocialという言葉がつくだけあって、社交的な場である。社交的な場では、社交的な言葉が暗に求められる。社交を求める場合にはSNSは便利だけど、個人の自由な表現にとっては、何かと面倒や妨げがついてくる場合が多いように思う。
ブログでも、読み手を意識し過ぎると、社交寄りになってくる。ぼくの場合、社交寄りになり過ぎると、書くのを楽しめなくなってきやすい。というわけで、最近ちょっと調整中。「です・ます」調で書くと、社交的な態度や言葉を誘発される。最初の頃、「です・ます」調で書くのが苦手だったが、いつの間にか大半の記事が「です・ます」調になり、そのほうが書きやすくなってきた。相手がいて話しかけるように書く場合は「です・ます」調のほうが書きやすいけれど、文体によって、自分から出てくる内容が異なってくるので、いろんな文体を行き来したいと思っている。
人間、どんな言葉で日々話し、日々書くかによって、自分の思考パターンまで影響されるように思う。
ごちゃごちゃ書いたけれど、要は、もっと自由に楽しく書く感覚を取り戻さなければ、という思いによる独り言。
自分と向き合うための言葉、というのも一つの文体だと言えるだろう。それを確立することも大事だろうと思う。
【関連記事】
by 硲 允(about me)
好き勝手と言っても、ウソを書いたり、誰かを傷つけるようなことを書くとそれなりの結果が生じるわけだけど、ネット上に書いた文章は誰の目に触れてもおかしくないということを常に意識し、誰かが読んだときに生じる気持ちや行動を想像してその結果を受け入れる心づもりをしておけば、それなりに自由に書ける。
SNSというのは、その名の通りSocialという言葉がつくだけあって、社交的な場である。社交的な場では、社交的な言葉が暗に求められる。社交を求める場合にはSNSは便利だけど、個人の自由な表現にとっては、何かと面倒や妨げがついてくる場合が多いように思う。
ブログでも、読み手を意識し過ぎると、社交寄りになってくる。ぼくの場合、社交寄りになり過ぎると、書くのを楽しめなくなってきやすい。というわけで、最近ちょっと調整中。「です・ます」調で書くと、社交的な態度や言葉を誘発される。最初の頃、「です・ます」調で書くのが苦手だったが、いつの間にか大半の記事が「です・ます」調になり、そのほうが書きやすくなってきた。相手がいて話しかけるように書く場合は「です・ます」調のほうが書きやすいけれど、文体によって、自分から出てくる内容が異なってくるので、いろんな文体を行き来したいと思っている。
人間、どんな言葉で日々話し、日々書くかによって、自分の思考パターンまで影響されるように思う。
ごちゃごちゃ書いたけれど、要は、もっと自由に楽しく書く感覚を取り戻さなければ、という思いによる独り言。
自分と向き合うための言葉、というのも一つの文体だと言えるだろう。それを確立することも大事だろうと思う。
【関連記事】
by 硲 允(about me)