10月はじめの早朝

早朝、寒いくらいの季節になった。4時半前くらいに目が覚める。起きるにはちょっと早すぎるけど、もう1回寝るには中途半端。ということで起きることにした。白湯を沸かしながらヨガなど組み合わせた運動。白湯を飲みながら『試行錯誤に漂う』(保坂和志 著)という本を少し読む。母屋に移動し、真っ暗な中で20分間の瞑想。パソコンのスイッチをつけて、キーを叩いてみるが、寒さで指が動きにくいので、離れに戻って長袖を羽織った。そんな朝。

ハトが盛んに鳴いている。ハトは人間のことをよくわかっている。うちの庭にいるハトたちは、しょっちゅう、木にとまって外からうちの窓の中を覗き込んでいるので、ぼくらの生活をある程度把握しているようだ。まだ寝ているか、起きてきたのか、わかっている。カーテンが閉まっていても、物音でわかるようだ。寝ているときは、起こさないように静かにしてくれているが、起きて活動し始めると、ハトも鳴き始める。

そういえば、まだ布団の中でうつらうつらとしているときに、庭からいろんな虫の鳴き声が聞こえてきて、それを気に留めないことも多いけど、この時はいい声だと思った。鈴虫のリーン、リーンという声も聞こえた。近所のスーパーで、去年か一昨年、虫かごに入った鈴虫が売られていた。庭でいろんな虫の声が一緒くたになっていると、どれが誰かわからないが、スーパーの鈴虫のおかげで、鈴虫の声を判別できるようになった。子どもの頃、家で鈴虫を飼ってことがあったけど、もうその鳴き声は忘れてしまっていた。こんな声だったっけ? 思ったよりもゆっくりとしたリズムで、スーパーの店内にかかる下世話な音楽とは周波数が異なるようで、店内の音楽と人間の話し声とは違った次元から聞こえてくるように感じた。鈴虫の声はスーパーの喧騒の中で聞いても風情がないのは当然だとして、人間がわざわざ鈴虫を飼うというのは、あの鳴き声に何か惹かれるものがあるからだろうか。たしかに、チベタンベルのような、癒やし効果というか、心を静めてくれそうな声ではある。それにしても、子どもの頃に鈴虫の鳴き声を聞いた記憶が全く思い出せない。虫の鳴き声に興味がなかったのか、その頃の自分には必要としていなかったのか…。餌のキュウリと、カゴに敷き詰めた土の混ざったようなにおいは鮮明に思い出せるのに。

鈴虫を飼っている人の話を聞いたことがある。卵を産んだらどうするとか、定期的にじょうろで水をかけて土を湿らせておくとか、聞いているだけで、大変そうだと思った。ぼくにはとてもできそうにない。畑と田んぼの手入れだけで精一杯。生き物を飼うというのは大変なことだ。どうやらぼくは世話が向いていないということがわかってきた。畑の野菜にしても、世話がかかるのを相手にするのは苦手である。適切なタイミングで支柱を立てたり、つるを誘引したり、というのが苦手。野菜の成長を妨げる草を刈るのは好きなんだけど。今年は支柱の必要なトマトやナスは少なめにして、あまり世話のかからない里芋や大豆を増やした。きゅうりも地這のものは支柱を立てなくていいはずだけど、支柱を立てた四葉きゅうりのほうがたくさん実をならしてくれた。トマトも大昔は地を這っていたようだ。ミニトマトよりもさらに小さなミニミニトマトは地を這っていた原種に近いようで、支柱がなくても、地を這うような育ち方をする。今年はいい感じに地を這っていたのだけど、実をたくさん付けて、ようやく緑色の実が色づいてきそうだという時期に大雨が続き、実が落ちたり破裂してしまったりして残念だった。その後、ぽちぽちと採れてはいるけれど、もう肌寒い季節になってきて、勢いはない。寒くなってきた頃のトマトは甘くて美味しいけれど。

世話をしきれないほど種をまいたらダメだということが、ようやくわかってきた。去年は秋冬野菜をたくさんつくろうと思い、8月の中旬過ぎだったか、早めに種を蒔き始め、暇さえあれば10月に入るまで、大根、かぶ、小松菜、春菊、水菜などの種を蒔いたが、次々に種を蒔くほうばかりに気を取られ、発芽した野菜たちの世話をする余裕がなく、あっという間に伸びてくる秋の草たちに負けて消えてしまったのが多かった。この反省から、今年は種まきの時期を急がず、9月に入って暑さが確実に和らいだのを確認してから蒔き始め、ちゃんと世話をできる範囲にとどめている。芽を出してくれたら、その周りの草を鎌で刈り、小さな野菜たちの成長を見守っている。発芽が少ないなぁと思ったら、種を蒔き足す。蒔かぬ種は生えぬ。世話せぬ野菜は育たぬ。世話しなくても勝手に元気に育ってくれる野菜もいるけれど、世話したほうがうれしそうに見える。こっちの勘違いかもしれないけど、やっぱりそう見える。世話しないと草に負けてしまいやすい野菜は特にそう見える。微妙な表情で助けを求めている。種を蒔くだけであとは放ったらかしではダメ、というのは畑に限ったことではない。ものごとに手を出すのは自分が世話をできる範囲で…というのは自分の課題であり、しっかりと身につけたい習慣である。