一人の時間

一人の時間、というのは、誰でもある程度必要なものだと思う。

新型コロナ社会は、一人の時間にも影響を及ぼしているようだ。それまで外で働いていた家族のメンバーがずっと家にいるようになったり、家族の外出が減ったり、家以外の居場所が減ったり。

うちはもともと、二人とも基本的に家で仕事をしていて、出かけることも前から少ないので、大きな変化はない。一人の時間に大きな変化はないが、イベントが減ったり、用もないのに誰かに会いにいくのを自粛していた時期もあり、他人と会う時間は減った。その分、一人の時間が増えたかもしれない。とはいえ、一人の時間もあり過ぎるともて余す。自分にちょうどいい量を見極める必要がある。

集中的に他人と会うと、やっぱり一人の時間が必要になるのを感じる。頭と心を整理する必要性を感じる。そんなときは、きっちりと瞑想の時間をとる。瞑想は、一人の時間を濃密なものにする。物理的に部屋で一人でいても、本を読んだり写真や映像を見たりしていると、他人からの情報が入ってきたり意識が外に向いやすいが、目をとじて日常的な思考を休めていると、いわゆる「一人の時間」というものがもたらす何かが何倍にもなって得られるような感じがする。「自分の時間」や「一人の時間」がなくて読書をする時間もない、という話をよく見聞きするけれど、読者はどちらかというと「他人の時間」という感じもする。読書によって自分も情報が得られ、物理的にも自分一人で過ごしているんだけど、他人の経験や思考を通した情報は他人が起点となっている。もちろん読書がわるいと言っているわけではないけど、本ばかり読んでいると、自分というものがゆらゆらして定まりにくくなることもある。

文章は一人にならないと書きにくい。ぼくの場合、ブログを書くことは、一人の時間を定期的にとる習慣の一つになっている。2、3日、書けない日が続いてもどってことはないけど、書けない日があまり続くと、書く時間を求め始める。

昨日、雑誌をめくっていると、ピアニストのグレン・グールドの言葉で、他人の時間を過ごすと、その何倍もの一人の時間が必要、というようなことが書かれていた(『グレン・グールドは語る』という本からの引用だった)。


それはそうかもしれないと思った。ぼくは誰かとしっかり話した後、そのときの相手の声やリズムや内容が、翌日も、場合によってはその後数日間、頭の中で鳴っている。畑で黙々と作業をしているようなときに、テンポよく、時にはにぎやかなほどに、頭の中で鳴っている。それがそのうち消えていって、頭の中が静かになる。その頃になると、また誰かに会いに行きたくなる。行ったり来たり。誰かに会いに行ってばかりだと揺らぎすぎるし、一人でいてばかりでも寂しくなったりもの足りなくなったりだらけてきたりしておかしくなってくる。自分にとって、ちょうどいいバランスというのがあるようだ。