『相田みつを 肩書きのない人生』(相田みつを 著、相田一人 編)を読んで。

相田みつをさんのことはほとんど存じ上げなかったが、『相田みつを 肩書きのない人生』(相田みつを 著、相田一人 編)という本を読んで、急に親近感を覚えた。



相田みつをさんの書は独特に思えるが、そんなことを思うというのは、独特ではない書が多いということだろうか。それは書に限ったことではない。

相田みつをさんの書がああいう文字になったのには、当然わけがあった。この本で、こういう言葉が紹介されている。

「自分のプロの書家だから、書こうと思えば当然こういうものも書ける。ただし、どんなに上手い字を書いても、見る人は、へえー、こいつはなかなか上手いなあ、と感心はしてくれるかもしれないが、いいなあ、素晴らしいなあ、と感動はしてくれない。技術だけでは、人を感心させることはできても、感動させることはできない。だから、自分は、若い頃から技術だけで勝負しようとは思わなかった」

相田みつをさんというと、ご自分の詩を書いた書が思い浮かぶ。他人の言葉を書にしていたのは30歳くらいまでだという。その理由を息子の相田一人さんにこう話したという。

「誰かが作った詩や短歌に感動したとする。それを書にしても、作者の思いと自分の感動は一致しない。だから、お父さんは、自分の言葉しか書かない。たとえどんなに拙いものであっても、そこには嘘がないから」

相田みつをさんは、「嘘がない」ことを大事にしていた、ということが、この本の全体から伝わってくる。人生そのものに嘘がないことを大事にされていたのだろう。だからだろうか、直球の言葉がすんなりと入ってくる。嘘がないことを大事にしていない人の言葉は、見た目はよさそうに見えても、どこか嘘くさい、ということがある。そのまま信じてはいけない、という警戒心がどこかから生まれてくる。嘘があるのが当たり前で、嘘がないなんていうのは嘘だ、と半ば開き直っている人からすると、相田みつをさんの言葉は素直に受け入れがたいかもしれない…そういう批評もそれなりに多そうだ。

嘘を見抜くには、自分が嘘つきではいけない。嘘つきで嘘に熟練している人は、相手の嘘の技術やパターンを見抜く能力にも長けているところがあるかもしれないが、嘘をつかない人のことは理解しがたくなるのではないかと思う。嘘をつかずに生きるのは難しい。小さな嘘が必要だと思えることもある。しかし、つく必要のない嘘までつきたくないし、嘘がなく営んでいける暮らしを築きたい。そのためのヒントがあちこちに転がっているように思える本だった。