ファッションと他人目線

スカートの下にズボン、だったか、ワンピースの下にズボンだったか、わからないけど、こういうファッションがいかにダサいかを専門用語を交えて批判しているブログ記事を見た、という話を人から聞いた。

他人が好きで着ているものをとやかく言うのはぼくは好きではない。自分が好きで着ているものをとやかく言われるのも当然好きではない。

結局、人の好みの問題についてとやかく口出しして威張っているというのは、他人目線で生きている、ということなのだろう。自分にも自信がないのだろう。あなたはあなたのままで大丈夫、自分は自分のままで大丈夫、誰かは誰かのままで生きていてほしい、とは思えないのだろう。

ファッションの流行なんていうのはバカげていると思う。そもそも、本当に流行しているわけではないことが多いのだろう。一人ひとりの好みや自発的な選択が積み重なって自然と流行ったのではなく、つくられた流行。権威のある団体か組織か何か知らないけど、そこで流行は「書かれる」らしい。流行設定。そんなのは流行と言えるはずがない。いや、それがいわゆる「流行」なのだろう。その設定に基づいて、生地がつくられ、ブランドやメーカーや服飾家が買い付けにいき、予定通りの流行に従って、売買される。そんなものを買わされてはたまらないと思うのだけど、そうではない人も多いのだろう。それも「好み」といえば「好み」なのだろうか。ビジネスのシステムに対する好み。ビジネスの都合によって踊らされるのは好きではない。

ファッションスタイルのバリエーションなんて、もう考え尽くされ、やりつくされている感が漂う。だから一巡する。何か今までにない目新しいものを、ということで目指すと、日常では着づらい奇抜なものになる。先鋭的と思われるファッション誌をめくっても、美しいと思えるようなものにはほとんど出くわさない。それも好みの問題ではあるが。無理やりに新しいものをつくろうとすると、心がともなわない。文章の世界でも同じだと思う。形式的、外見的に新しいものは、その筋の人にはウケるのかもしれないが、素人にはどうでもいいように思えることが多いのではないか。しかし、素人は謙虚すぎるので、玄人らしき人がいいというものを一度は試してみようとするので、それなりの市場が生まれる。しかし、心からいいと思えないものにお金を支払い続けることはしないだろう。それで、次々に目新しいものを生み出さないと、お金は回っていかなくなる。労力ばかりかかって実りの少ない、不毛なサイクルに思える。

自分が本当にいいと思うものを選ぶ目や心を養っていきたいと思っている。誰かがいいと言っているものを網羅的にさらっていっても、自分の中になにかが残りにくいし、自分独自の感性が養われにくい。そのときの自分がぱっと見ていいと思わないものはスルー。他にも見るものや、やることはいっぱいあるのだから。そのときにいいと思わなくても、あとからいいと思うこともある。そうなったときが、自分にとっての旬なのだろう。自分がある程度熟してこないとわからないこともある。わからないままに吸収するのもリスクがある。消化不良を起こすかもしれないし、それが自分にどういう影響を与えているのか、自覚しにくいことも多い。自分の場合、勉強的、修行的になると、うまくいかないことが多い。何事も、他人の目線はあまり気にせず、他人と自分を比べるようなこともせず、単純に、自分が楽しいか、面白いか、喜びやワクワクを感じるか、日々の幸福感を高めるか…そういう単純な基準で判断するとうまくいくことが多い。