相手のリアクションがなくても

大学生の頃、なんの授業だったか忘れたけど、二人組になって、一人がなんでもいいから話し続け、相手は相槌も打たず、返事もせず、黙ってただ聞きつづける、という実験をさせられた。相手から何も反応がないと一人で話し続けるのはキツイ、という結論を得るための実験だったが、ぼくは相手の反応がなくても一人で気持ちよさそうに話し続けたことがあった。ディベートやスピーチの練習で、反応が薄くても話し続ける練習をしていたせいかもあるかもしれないが、もともとそういうのが平気なほうなのかもしれない。ブログにしても、相手の反応がなくても、一人で何か言い続ける行為である。相手の反応がなければ続けられない、というのでは、ブログは書き続けられない。とはいえ、話すのと書くのとはまた別かもしれない。相手の反応なく話し続けるのは、相手の反応なく書き続けるよりも寂しいものがあるように思う。家で一人で話し続けてネットラジオを配信するとか、すごいなぁと思う。ちょっと面白そうだなぁと思うときもあるけれど、実行してみるまではいかない。静かな部屋で宙に向かって一人で楽しく元気に話し続ける、という芸当はできそうにない。楽しく元気に、という必要はないのかもしれないが、ひとりぼっちで話していると、話し声に寂しさが混ざってきそうだ。

相手のリアクションが薄いなかで話し続ける、というのは、ちょっとした訓練が要るのかもしれない。大学生の頃にディベートやスピーチでそういう訓練をしたのはよかったと思う。パブリックスピーチの機会がしばらくない期間が続き、急に複数人の気の知れない人たちの前で自分の意見を言う必要がある場面に遭遇したとき、うまく言葉が続かなかったことがあり、こういうのは日頃やっていないと衰えゆく能力なのだと思った。

相手の反応がどうあれ、話し(書き)続けるためには、自分の考えや意見がはっきりしていたほうがやりやすい。相手の反応を見ながら、それに応じて内容を調整することに慣れている場合には難しいかもしれない。相手の反応によって自分の考えや意見を変えることはしたくない。とはいえ、誰に対しても同じ調子で同じことを同じ量、同じスピードで話す、というのでは、社会生活に困難をきたすだろう。相手のリアクションに応じて、それなりの出力調整が必要になる。それが会話の面白いところでもある。意外なものが引き出されたりすることがある。

ブログの場合、即座に相手からの反応は得られないので、いつものスタイルを貫きやすくはあるが、マンネリにも陥りやすいところがあるかもしれない。だから、時々、いろんな違った書き方を試してみる。文体を変えてみたり、文字数の目安を調整したり、写真の使い方を考えてみたり…。書いてみて、書く前に自分が書こうと思ったことしか書けないのでは面白くない。書いてみると、書く前には予定していなかったものが書けるから、わざわざ書こうという気になれる。会話にしても、どういう話になるかが前もって全部わかっていたらつまらないだろう。結末と過程がわかっている映画を何回も観るのは苦手だけど、一方で、同じ映画を何度も飽きずに観て楽しめる人もいるようだ。同じものを観ることで安心感のようなものが得られるのだろうか? よくわからないけれど、人それぞれで面白い。ぼくは飽き性のほうだと思う。飽き性は飽き性なりに、自分が飽きずに楽しみ続ける方法を工夫していきたい。ブログも毎日更新しているとちょっとマンネリになってくることがあるが、最近は面白くなってきた。自分が面白がって書けば、それなりに読んで面白いものが書けると信じることにしているが、どんなものか…とにかく、自分が楽しく、面白ければOKということにしている。誰から注文されたり依頼されたりしているわけでもないのに、相手のことを考え過ぎて窮屈になる必要はないだろう。誰に頼まれるでもなく、指示されるでもなく、自分がただやりたいからやる、ということをやり続けるのは心身の健康にも大事なことだと感じる。健康のためのブログを書いているわけではないが、ブログを書き続けることはぼくにとってはそういう効果もあるようだ。