風通し

他人と会うことで、自分が見えてくることがある。自分が浮き上がってくる感じ。誰と会うかによって、自分のまた違う部分が引き出される。引き出されないままの部分も残っている。意外な部分が引き出されるのも面白い。

自分一人の時間も必要だけど、ぼくは他人と過ごす時間も適量、必要だということがこの頃よくわかってきた。出かけすぎるのも疲れるけど、出かけなさすぎでも弱ってくる。出かけなさすぎの日が増えたことで、それがよくわかってきた。

家にいると怠けすぎていることもあるのだろう。怠けているつもりはないんだけど、気持ちが緩みすぎるようだ。時々は気の使う相手と過ごす緊張感が必要らしい。気疲れは嫌いだけど。余計に気を使わずに他人と過ごせるようになればいいんだろうけど。それも前よりはできるようになってきた気がする。「気」の使い方は、奥が深い(「気」よりも「氣」の漢字のほうが好き)。

誰かとしばらく話した後、自分の話し声の残響が頭の中で繰り返されていることがある。その残響の中に、自分が見える感じがすることがある。他人との接触の中で、自分の実力が試される感じがすることがある。

自分一人でいて、他人が書いた本ばかり読んでいると、自分の頭の中は変化、進化しているような気がしても、他人と会って話すと自分は何も変わっていないと感じることがある。他人から新たに得た情報を伝えることはできても、自分のこととして話せることはあまり増えていない。ぼくは自分のこととして話せるような体験をいろいろしたいタイプの人間のようだ。体験自体が楽しい。それを話したり書いたりすることも楽しい。小さなことでも、何か自分にとって新しいことをした日は充実感を感じる。新しいことは、ちょっと頭を使い、ちょっと工夫するだけで、案外身近で得られる。料理の野菜やスパイスの初めての組み合わせを試してみたり、いつもと違うコースで目的地に向かったり。今日は、普段あまり開かないシンク下の棚の中を片付けて掃除しただけでいろいろ発見があった。掃除をすると、部屋も頭も風通しがよくなる。