曖昧なままに。

最近、文章を書くのが楽しくなってきた。前から文章を書くのは好きなほうだと自分で思っていたが、時期によってむらがある。そういうものだろう。書きたいことが溢れているときは筆(キーボード)も進むが、書きたいことを書き尽くして、まだ書こうと試みるのは無理がある。

ブログをほぼ毎日、6年も更新して書き続けていると、書きたいことはもうほぼ書いた、というような心持ちになることもある。コラム的なものは生まれてきにくい時期もある。幸いこのブログは雑記帖なので、何でも書きやすい。書きたいことをだいたい書いた、と思っても、案外いろいろ書くことは残っている。そもそも、毎日、新しい一日を生きているのだから、新しいことは次々に生まれてくる。考えたこと、思ったこと、したこと、行った場所、目にしたもの、手にしたもの、手に入れたもの…あらゆる新しいことが日々、次々に生まれている。その断片的なものを書けば、毎日書くことには案外困らない。だけど、毎日ただ、その日の投稿を埋める、というのでは面白くない。自分が楽しく、面白く書けなければ、なんで書いているんだろう、という疑問が生じてくる。だから書きたいことだけを書きたい。

何を書くか、というのも大事だけど、どう書くか、というのも同じく大事だと思う。同じテーマやものについて書くにしても、書き方によって、書けるものはだいぶ違ってくる。それについて、である調で書くのか、です・ます調で書くのか、という違いだけでも、書けるものがけっこう違ってくるものだ。そういうことも、ブログを毎日のように書いているうちにわかってきた。ぼくはもともと、である調で文章を書くことが多かったので、最初の頃はです・ます調で書くのに慣れなかったが、書いているうちに、自分なりのです・ます調文体というのがかたまってきた。そして、です・ます調で書くと書きやすい内容もあれば、である調にしないと書きづらいこともある、ということがわかってきた。今は、書き始める前に、どっちで書こうか瞬時に決められるようになった。前は、なんとなくで決めていたが、いつの間にか、もっと意識的に使い分けるようになった。

最近は、WORDで文章を書いて、そのあとで、ブログの編集画面に文章を貼り付けて投稿するようになった。そのほうが自分には書きやすいということが、やってみてよくわかってきた。ブログの編集画面で書くと、インターネットに接続された場所で書くことになるので、対外的な意識が働きすぎるようだ。その結果、遠慮や自制も働きやすくなるようだ。なるべく自由に書くことを大事にしているので、オフラインの場所で書いたほうが書きやすい(最近はどうやらワードもオンラインにつながっているようだが…)。他にもいろいろ、テキストエディタを試してみたいと思っている。何で書くかによって、書き心地がずいぶん違ってくる。どんなノートに書くかによっても書き心地や書き進める感じが違ってくるように、パソコンに向かってキーボードで書くときも、どこに書くかによって、書き方や書き心地が違ってくる、というのがよくわかってきた。

言いたいことがあって書く、というよりも、書きたいように書く書き方を最近は心がけている。言いたいことがあって書くのもいいのだけど、書きたいことだけを書きたいように書いていると、言いたいこともスムーズに楽しく書けることが多い。書いているうちに、言いたいことがいつの間にか生まれてくることもある。論理的に、数学的に、構造的に書く、というよりも、音楽的に、即興的に、散歩するように、散策するように書く。軽やかに、思うままに、ラクに、気楽に、自由に楽しく愉快に書きたい。自由に書くためには、接続詞に縛られないことも大事だと、最近気づいてきた。接続詞は、論理的構造を規定する。それが役立つこともあるけれど、それによって不自由になるところもある。自分の中ではっきりしていないこと、曖昧なところがあるもの、もやっとしたまま生まれつつあるもの、どっちへも行けそうなものを言葉にするには、接続詞が邪魔になることもある。はっきりとした明瞭なものばかりを書く必要はない。文と文のつながりのいびつさの中に何かを込めることもできる。そういう書き方も面白い、と最近思うようになってきた。あまりにもやもやしたいびつなものは読んでいて気持ちわるくなることもあるが、ある程度のもやもやや矛盾を含ませた文章というのも面白い。

一人の人間というのは、そう単純な存在ではない。人間の思考や想いも、そう明確にわりきれるものではない。それを無理やりわかりやすく、すっきり表現しようとしても無理がある。曖昧さのなかに本質が隠れていることもあるだろう。不自然な曖昧さや狙いすぎた曖昧さではなく、ありのままの曖昧さは大事にしたい。

曖昧なまま、もやもやとしたまま書き進めるというのも面白い。あまりに曖昧で理解不明でカタチにならなければ、それはそれで、そっと仕舞っておけばいい。曖昧さをカタチにし、なんらかのカタチで表現していくことは、自分にとっての癒やしにもなるように感じる。誰かに話を聞いてもらえただけですっきりした、というのと同じかもしれない。淀んで詰まったところを解きほぐし、流れをよくしておくことは心身の健康に不可欠のことだろう。それは自分の心と身体から始まる。他人をどうこうしようとするのは大変だが、自分から始めるのはそう難しくないはずだと思う。