いき苦しい学校社会

「義務教育」という言葉はわざと紛らわしいようにつくられているような気さえしてくるけれど、教育を受けるのは子どもにとっての義務ではない。

当然、学校に通うのも義務ではない。ところが、いざ学校に行ってみると、なんでもかんでも先生たちの言う通りに従わされる仕組みができているのはどういうわけか?

学校に通っていた当時は、それが当たり前だと思いこんでしまっていたが、校則なんていうのもバカバカしいものが多い。髪の長さや色がどうのとか、ズボンやスカートの丈がどうのとか、爪の長さにまでケチをつけてきたり…。そういう外見的なことを、ルールで抑えつけようとしたところで、効果はしれていると思う。反抗したいのには、それなりの理由がある。反抗を規則で抑え込もうとしたところ、反抗心まで消すことはできない。外見的な反抗から、心の奥を読み取り、必要だと思えば、しっかりとコミュニケーションをとることのほうが大事だと思うけど、何らかのサインが出ているのにその意味を読み取らず、表向きのサインだけ封じ込めようとするのは、相手を無視しているのと同じだろう。

どの授業にも出なければいけない、どの先生の言うことも聞かなければいけない、というのも、今思えば無理がある。出たくない授業にまで仕方なく出て時間を潰しても何にもならない。好きなことをして遊んでいるほうがいいのではないかと思う。頭も心も疲れてくる。そして何もやる気がしなくなってくる。そのうち、好きなことすらなくなってしまう、というか、忘れてしまう。そんな大人も多いのではないか。その原因の一部、というか、大きな原因として、教育の失敗が挙げられるのではないか。

走りたくない人まで無理やり走らされる、というのはどう考えてもおかしい。歩きたい人は歩けばいいし、寝転んでゆっくり太陽を浴びていたい人はそうすればいいと思うのだけど、画一的な、教育という名の調教らしき世界ではそういうことは通用しない。甘えや怠けやサボり、反抗、という言葉で片付けられることだろう。

一般的な学校制度をよく通過してこれたなぁ、と自分で思うことが時々ある。当時はそれにほとんど疑問を持たず、従順だったのがかえってよかったのかもしれない、とも思うが、よかったのか、わるかったのか…。今思えば、学校時代というのは狭苦しかった。よく我慢できたなぁと思う。今の自分なら、1年も経たないうちに鬱のような状態になってしまうかもしれない。おかしいと思いながら学校に通っている人は、なおさらきついだろう。学校に行きたくなくなって行かなくなる人の気持ちがわかるようになってきたように思う。当時、「不登校」なんていうと、大問題な気がしていた。時々、クラスの中に、名前だけリストに載っているが顔すら知らないクラスメートがいた。ただならぬ事情があるのだろうと思っていた。

最近は、学校に通わず、のびのびとしている人も周りで目にすることが増えてきた。親は心配していることが多いように思うが、ぼくは、メインストリームを早いところ離れた人たちに希望を感じる。エールを送りたくなる。実際には伝える機会はないけれど。

マスク社会は息苦しい。学校がますます息苦しく、生き苦しくなっていないといいけれど。先日、家で相方に散髪してもらうのに新聞紙を床に広げていたら、プールで指導者が水中マスク、なるものをしている写真が載っていて、たまげた。マスク社会になっても、学校のプールの授業は続いているのだろうか。まさか、プールでまでマスクしてないやろなぁ、と冗談で話していたことがあるが、そのまさか、プール用マスクなんていうのがあるとは、世の中は既にジョークを具現化した世界になってきているようで、笑っていいのか、しかし、笑ってもいられない。ひとまず自分はまともでありたいと思うが、多くの人は自分はまともだと思っているのだろうか。他の人から見たらどうであるかはともかく、まずは自分で自分がまともだと思うことはひとまず大事なことかもしれない。