ワープロの日

この頃毎日、寝る前に『猫ごよみ365日』(中西なちお 著)を手に取り、その日のページを開いて眺めている。


9月26日のページを読んでいて初めて知ったんだけど、この日は「ワープロの日」で、昭和53年のこの日、世界初の日本語ワードプロセッサー一号機が東芝の研究所で生まれたという。

日本語のワープロができてから、まだそれくらいの年月しか経っていない、ということはちょっと面白いことのように思えた。日本語ワープロが生まれたとき、ぼくはまだ生まれていなかったが、ぼくが生まれたのは、日本語ワープロが生まれてからまだ十年もたたないうちのことだった。ワープロが生まれたからといって、すぐにみんなの手にわたったわけではない。ぼくがキーボードを叩いたのは、小学生の頃だっただろうか、父のワープロを叩かせてもらった記憶がある。その頃には多分、もうテレビゲームをやっていたのだろう、ワープロのキーボードを叩くのもゲーム感覚だった。点描というのか?ワープロで絵を描く機能もついていて、マスの点々を埋めて絵もかいた。

基本的に、文章を書くだけの機能に特化したワープロというのは、機能がごちゃごちゃ溢れたパソコンよりも静かな佇まいだった。灰色のボディもなにやら雰囲気があった。パソコンを使い始めたのは、ワープロを触ってからまだ何年も後のことだった。祖父がノートパソコンを買ってくれた。最初、何に使えばいいのかわからなかった。とりあえず、タイピングを覚えた。タッチタイピング(ブラインドタッチ)のソフトを買ってきた。文章を打つため、というよりも、テレビゲームの延長線上にあった。ソフトでボコボコやっているうちに、すぐに指が覚えた。中学校だったか、パソコンの授業があって、ブラインドタッチの練習をやらされた。このゲームはもうクリア済みだったので、簡単なことだった。これがもし、家でゲーム感覚で身に付けず、学校の勉強の一環として初めてキーボードを触ったなら、あれほど楽しめなかったかもしれない。面白くて楽しいことならゲーム感覚であっという間に身につけられるけれど、自分がそのとき興味がないのに、誰かにやらされたことは面白くも楽しくもないし、無理やりやらされたことは身につきにくい。学校の授業でのブラインドタッチの練習は、AからZまで順番になるべく速く打っていく、というものだった。これはぼくは案外、たいして速くなかった。普通、キーボードはそんなふうに使うものではない。日本語にしても、英語にしても、そういう順番でキーを打って文章を書くことをしないので、ブラインドタッチの練習ソフトでも、そういう練習はしなかった。普通、単語や文章を打つ練習をする。学校の授業の内容を考えた人は、そこまで頭が回らなかったのだろう。AからZまで打てばキーが全部網羅されるからOK、ということにしたのではないか。AからZまでの早打ちとなると、これは文章を打つのとはまた別の能力になる。初めてキーボードを触るクラスメートにその速さで負けたときはちょっと悔しかった。負けず嫌いだった(今も?)ぼくは本気でこの特殊能力を磨き、自分の限界の速度に挑戦した。3秒くらいだったか、もう忘れたけど。

それにしても、日々、当たり前のようにキーボードを叩いているけれど、日本語ワープロの歴史がそんなに浅いものだというのは面白い。キーボードを叩くという行いは、人類が長年、代々やってきたことではない。スマホを操作するなんていうのは、さらに歴史が浅い。そういうツールを使いながら思考するという行動様式の歴史が浅いというのが面白い。鉛筆を握って考えるのと、キーボードを打ちながら考えるのとでは、考え方にも違いが生じてくるように思う。キーボードを叩きながら考えることばかりしているということは、自分の思考を歴史の浅い方法に頼っているということかもしれない。それで問題ないと思う人もいるだろうけど、ぼくはちょっとした頼りなさも感じる。自分の思考をノートに書きつけるときには、キーボードで打つときとはまた違った安心感のようなものを感じる。それを失いたくないので、ノートに書くことも続けている。一方で、ワープロやパソコンは便利でもある。手書きで書くよりも高速で書ける。インターネットに接続し、メールやブログやウェブサイトなどを通じて、自分が書いたものを遠く離れた人に瞬時に発信できる。これを活用することをやめようとは思えない。

日本語ワープロが生まれ、パソコンが生まれ、個人がhtmlでホームページをつくり始めたと思ったら、ブログや簡単にウェブサイトをつくれるサイトがでてきたと思ったら、SNSが多くの人の日常に溶け込んで行き…。この変化はあっという間だった。ぼくが中学生の頃、ケータイなんて自分を含め周りのほとんどが持っていなくて、ポケベルを持っている人がちょっと「大人」に思えたのに、いつの間にか、誰でもスマホを持っていて当たり前の世の中になった。これから10年くらい先だと、今とそれほど変わらない気もするが、30年も先になると、人間が日々使う道具はかなり様変わりしているかもしれない。その頃、ぼくは相変わらずブログを書き続けているのだろうか…?それはわからないが、文章はどこかに書き続けていたいと思っている。