始めてよかったこと

瞑想の習慣が続いている。続いているものが習慣なのだから、習慣が続いている、という言葉はおかしいのかもしれないが、とにかく、瞑想は続けたほうがいいものだと、いつの間にか確信している。

朝の瞑想は基本的に欠かさない。夕方に、もう一度。夕方は抜いてもいいかもしれないと思い、試しに夕方は無しにする日をいくらか続けてみたら、やっぱり一日に二度したほうがいいと思った。

朝に瞑想をすることで、その日の自分の状態が整う。その日一日ですべきことがはっきりとする。頭と体の連携がうまくいく。頭でっかちや、体だけ暴走、ということになりにくい。適度に思考を働かせ、無駄なく体を動かせるようになる。自分の体の動きを観察していて、これは瞑想が足りてないな、と気づけるようになった。

夕方に瞑想をすることで、その日のできごとや考えたこと、思ったことなどが頭の中で整理される感覚がある。外にでかけ、いろんな人と会って話し、目新しい体験をたくさんしたような日は、特に夕方の瞑想を必要としているのを感じる。そういう日の夕方に瞑想をしておけば、翌日に疲れが残りにくい。前までなら頭の中が整理されるまでにもっとかかったであろうことが、翌日にはすっきり整理されていると感じることがある。疲れていると面倒になって夕方の瞑想をスキップしたくなることもあるが、疲れているときこそ瞑想は必要なようだ。今のところ、瞑想をした後で、やらなければよかった、と思ったことがない。やったほうがよかったな、と思うことはあるけれど。

瞑想といっても、いろんな方法があるけれど、ぼくの瞑想は自己流。一人になれる部屋で、椅子や床に座り、ケータイのストップウォッチ機能で20分のタイマーをセットし、目を閉じて20分過ごすだけ。最初の頃は、なるべく何も考えないようにしていたが、最近は思考を無理に抑えようとはしなくなった。今日は考えたほうがよさそう、というときもあれば、何も考えないでいたほうがよさそう、というときもある。そういう判断はその時、その時で瞬時にする。考える瞑想は瞑想と呼ぶにふさわしくないのかもしれないが、気にしない。終わったあとで、すっきりしていれば成功である。始める前よりも終わった後のほうが気分がよくなっていればそれでいい。終わったあとのほうが気分がわるくなっていた、ということは今までにない。とにかく、20分間、目を閉じてじっとしているだけで効果があるようだ。何も難しいことはない。何も考えないようにしなくてはいけない、となると、退屈するかもしれない。退屈して窮屈になって、ストレスやフラストレーションを感じるようでは逆効果かもしれない。考えたいときは考える。考えたくないときは考えない。やってくる思考を観察する。そのうち、静かになる。堂々巡りもOK。何かアイデアが浮かんだりもする。覚えておきたいアイデアがあれば、目を開けてメモすることもある。忘れないようにしなければ、と思って残りの時間を過ごすのは頭に余計な負担がかかりそうなので。メモしたら、また目を閉じて、瞑想の世界に戻る。ちょっとしたアイデアが浮かぶことは多い。畑仕事をしているときにも、アイデアが浮かぶことが多い。その感覚と似ている。思考がほどよく休められたときに、ふとアイデアが浮かびやすいのだろう。うんうんと唸って考えるのも必要だと思うけれど、そればかりではしんどい。楽になったときに、生まれるものがある。楽にするための方法の一つとして、瞑想をとりいれる。散歩が瞑想、という人もいるだろう。草刈りも瞑想的作業だと感じる。だけど、草刈りや散歩にはそれなりの注意力のようなものが必要となる。鎌で手を切ったら痛いし、車に跳ねられるのも嫌だ。家の中で目を閉じてじっとしている分には、危険は少ない。あたたかい時期は虫が気になることもあるが…。

瞑想を始める前は、瞑想をなんとなく嫌っていた。瞑想という言葉がいかめし過ぎてよくないのかもしれない。なんだか難しそうで、うさんくさい感じもする。目をつぶって20分、というと、ずっと簡単そうに聞こえる。複雑な方法論を覚えなくても、それだけで充分効果がある。もっと前から始めていたら、今ころはずいぶん違うところにいるだろう、と思うくらい、やるのとやらないのとでは日々の行動や思考、知覚が違ってくる。もっと早く始めていればよかった、という後悔は特にないが、始めてよかった、と疑いなく思う。