手本の模倣。競書会の思い出より

小学生の頃、「競書会」や「市民憲章」というものにけっこうな時間が割かれた。「書」を「競う」なんていうコンセプトは今ならまっぴらごめんだけど、当時は何の疑いもなく参加していた。競っているつもりはなかったが、金賞、銀賞、などの評価は自分にとってある程度重要だった。

それにしても、今思えば、他人の字を真似て何回も、何時間もコピーしまくる、というのは弊害もある。きれいな字は書けるようになるかもしれないが、自分らしい字を失ってしまう、という側面もある。美しく、かつ、自分独自の字が書けるところまでいけばいいが、学校の授業中に手本を真似して何度も書くだけでは、そこまでは通常はいかない。美しいとされるお手本の下手な真似止まりである。

ぼくは真似がそれなりに上手かったので、だいたい毎回、金賞だった。お手本と似たように書けば、金賞がもらえる。真似がもう少し下手だと銀賞、真似にもなっていないレベルだと賞はもらえない。オリジナルで味のある字であったとしても、オリジナルすぎれば賞はもらえないだろう。賞はどうだっていいと思うが、人によっては、自信を失くすかもしれない。

金賞の上に、「中央展」というのもあった。金賞から下は「~賞」なのに、急に「中央展」という名になる。これも小学生のぼくには意味不明だったが、中央展という展示会かなにかで展示されるということだろうとなんとなく思っていた。「中央展」は獲ったことがない。中央展に選ばれた作品たちを見ると、大人たちが書いた手本の字よりも少し大きめで、生き生きとしている。それを見て、ぼくにはこんな字を書くのは難しいと思った。今思えば、大人のつくったお手本を真似するのではなく、中央展に選ばれた作品の字を研究して、それを真似したほうが中央展に選ばれる確率は高まったかもしれない。当時のぼくにはそんな戦略を考える能力がなかった。

周りの人に聞いた限り、書道にどこまで本気になるかは、学校や、先生によって異なるらしい。ぼくはたまたま、それが熱心なところに通っていた。先生によっては、お手本の文字を縦横にそれぞれ4分割した線を入れて、練習の用紙にも同じ縦横の線を入れて、手本通りの配置に文字を書く練習をさせられた。こうすると、けっこう正確に真似できる。しかし、それで生き生きとした字がかけるはずがない。これは基本練習として、さらに応用編として、自分らしさも加味した生き生きとした字を書かなければ中央展には届かないのかもしれないが、そのための練習はしなかった。中央展に行くには、練習ではなく、才能が必要なのだと思っていたが、今思えば、練習次第では誰でもその域に達するはずだ。そのための練習方法というのが用意されていなかっただけだろう。

コピーするところまでは単純だが、そこを通り抜けて、もっとオリジナルな領域、才能がなければ無理だと一瞬思ってしまう領域まで行くには、また違った工夫や練習が必要になるだろう。グリッドでかためた練習用紙やお手本からは離れなくてはならない。まずはお手本のコピーもそれなりの練習にはなると思うが、そこを通り過ぎたときに真の面白さがあるはずだ。そこへ行く手前でやめてしまうのはもったいないし、できあがってくるものも一様で面白みのないものばかりになってしまう。みんな同じようなそれなりに上手な字で世の中埋め尽くされるよりも、下手かもしれないけれどユニークで面白みのある字がいろいろあるほうが楽しい。

学校の勉強ではたいてい、模範とされているもののコピーで終わりだから、つまらなくなる。模範が上手な人が高く評価され、下手でもいきなりオリジナルなことをしようとすると正される。正しいとされる答えは最初から決まっている。しかし、世の中、そんなふうにはできていない。一つの正解がない世界でどうやっていけばいいのか、それについてはほとんど教わらない。学校に通う者たちは、それにうすうす気づいていたり、はっきり知覚していたりする。それもあって、なんのために勉強するのか疑問を抱く。何のためになるのかわからないまま、何かをし続けるのは精神的にきつい。長年、そんなことをし続けていると、自分の全体的なやる気が失われていく。エネルギーの使い方がわからなくなってくる。興味、関心のアンテナが働かなくなってくる。なんのために生きているのかわからなくなってくる。

他人が用意した手本をコピーする、という学生時代に身につけたスタイルは、大人になっても続きやすい。誰か一人に傾倒し、その人が発信している知識を網羅的に取り入れたり、資格をとりまくったり、誰かの生き方に沿って自分の生き方を設計したり。好みの問題であり、生き方の選択の問題だけど、それしかない、と思わされてしまうのは学校時代からの弊害のような気がしてならない。自分らしさ、あなたらしさ、誰からしさ…そういうものが色々、たくさんあったほうが面白いと思うけれど、そういうものが開花しやすい土壌ができていない。コピペは簡単でてっとり早いけれど、独自なものを花咲かそうとするならば、滋養にとんだ土が必要で、芽を出すには種が要り、芽を出しても小さなうちは丁寧な手入れが必要なこともあり、大きく育つまではそれなりに時間がかかる。そんな悠長なことはしていられないだろうか。しかし、気長に待ってこそ、美しい花が咲いたときの喜びは大きい。美しい花を咲かせたいという意思がこの世には少なく、小さすぎるのかもしれない。無難な花でいいと妥協するのは、人間の人生、生命にとって失礼であり、侮辱だとも思う。小さく出た新芽は、気づかれないかもしれないし、放っておくと近くの草に負けたり、虫に食べられすぎていつの間にか消えてしまうこともある。守りたいなら、それなりに手をかける必要もある。大人の責任とは、そういうことだろう。下手に手を加えて介入し過ぎるのもよくない。

それにしても、自分らしさ、という言葉はちょっと陳腐で、安っぽいマーケティングに使われてそうな感じもあり、使うのに躊躇する。もっといい表現はないものか。自分になる、というのも違う。自分は既に自分だ。他人に引きずられた自分も自分。「自分らしさ」なんて考え始めるからややこしくなる、というような話も聞くが、だからといって、みんなと同じでいいや、ということでもないだろう。やっぱり人それぞれ、その人の「らしさ」というようなものは存在すると思う。それは言葉で明確に切り取るのが難しいようなものかもしれない。言葉にはならなくても、周りの人が見れば、なんとなくみんな共通して感じているようなものであるかもしれない。自分では気づきにくいものかもしれない。探さなくてもすでにもっているものかもしれない。それは言葉を付ける必要なんてないものかもしれない。