「表現の自由」は使ってなんぼ。情報の流通経路としてのSNS



by Free Speech for the Dumb / waltjabsco


「表現の自由」は「知る権利」とセットだと言われてピンとくるでしょうか?

伊藤真の日本一わかりやすい憲法入門」という本で読んで「なるほど」と思ったのですが、政府が「言論の発表は自由だ」と言いつつ、特定の内容の本を購入することを禁止すれば、「表現の自由」を保障した意味がなくなってしまう、と書かれています。




それはそうです。表現するのは自由、だけどそれを見るのは禁止、ということにすると、表現されたものは他人にとっては存在しないのと同じことになってしまいます(表現した本人の人格の発達には役立つかもしれませんが)。

だから、「表現の自由」というのは、表現された情報の情報源から、受け手に至るまでの流通経路すべてを保障していると考えられているそうです。

表現する側の立場からすると、自分の表現を受け手までいかにして流通させられるかということが重要になってきます。

今のように印刷技術やITが発達する前は、例えば自分が書いた文章を発表するにしても、多くの人に届けられる手段を持っている人は限られていました。一時期、愛読していた武者小路実篤や志賀直哉らの作品が載った雑誌「白樺」が発行されていた当時は、雑誌を出すにも、活字を並べかえて印刷するのに膨大な手間がかかり、編集係は自分の創作の時間を削る必要がありました。

それが今では、インターネットに接続してSNSでポンとつぶやけば、何十人、何百人、人によっては何千、何万人に一瞬にして自分の言葉を届けることが可能です。しかも、出版社など他人を編集を経ずにダイレクトに。

先日の記事(「表現の自由」は自分のためであり、社会のためでもあるということについて。 )にも書きましたが、上の本によると、「表現の自由」が重要な理由の一つに、「『表現活動を通じて、国民が政治的意志決定をなす際の判断資料を提供する』という意味で、民主政における社会的価値があると考えられるから」ということがあります。

この点においても、SNSの普及によって、判断材料として価値の高い情報が多くの人に届きやすい仕組みが整ってきました。SNSができる前は、どこかのホームページに役立つ情報が載っていても、それを見た人が誰かに伝えようと思ったらメールで知らせたり、URLを直接教えたり、手間がかかりましたが、今ではシェアボタンを押せば一瞬です。

シェア・拡散されやすい情報というのは、もちろんそういう価値の高い情報だけに限りませんが、情報が詳しく、わかりやすくまとまっている記事というのはシェアされやすい傾向があるように思います。

ホームページができ始めた頃のウェブ上での情報交換といえばBBS(掲示板)がよく使われていましたが、今ではブログやSNSでのコメントなどで、特定の記事に対する多様な意見を一度に見ることができ、それも判断材料として役立ちます。

日本ではネット空間で「表現の自由」の流通経路がこれほど整っているのに、これを目一杯活用しないのはもったいないことです。

東京都知事選への立候補会見をした俳優の石田純一さんが、その後、事務所が「11日の会見をもちまして 、今後一切、政治に関する発言はできなくなりました」と発表したそうです。テレビへの出演者が、番組のスポンサーや政権の気に入らないことを発言できないというのは、「表現の自由」の侵害ではないでしょうか。テレビは「表現の自由」の流通回路としてはすでにショート寸前に見えます。

権利は行使しないといつの間にか奪われてしまいます。

SNSは、つながりが増えれば増えるほど、自分と意見の違う相手も増え、だんだん当たり障りのないことしか言えなくなっていく傾向があります。「自己表現の場」から「社交の場」へと変わっていきます。

それならそれで、SNSでなくても手段は何でもいいと思いますが、自己表現を思う存分できる場や方法を確保しておかないと、「表現の自由」を行使できなくなり、いつの間にか完全に奪われていた、ということにもなりかねません。奪われてから気づく大切なもの・・というのでは遅すぎます。自民党の憲法改正草案を見ると、危機はすぐそこに迫っています。



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