ものを教える人間のあり方について。

最近、ある技術を得るために講習を受け、教え方の重要性を痛感した。

ある指導員は、生徒(?)をリラックスさせるのが上手だった。その技術とは関係のないことから話を始め、お互いの関係を潤滑にしてから本題に入る。上から目線で教えず、偉そうにせず、失敗しても高圧的に指摘しない。

別の指導員は、どちらかというとスパルタタイプに思えた。こちらが失敗すると、ネガティブな感情を向けてこられたように感じた。それは心地よいものではないので、再びミスをしないようにと不必要なほどにかたくなり、かえってミスが増えてしまう。

どのような教わり方を好むかは人それぞれだと思うが、ぼくは何かを教えるような機会には前者を目指したいと思った。

何かを教える側の人間というのは、たまたま先にそれを知ったり体得したり、というだけの話で、必ずしも「偉い」人間ではないし、偉いからといってエラそうにしていいわけではないし、エラそうにする人間が偉い人間のはずがない。

エラそうにする人間は、実のところ、ショボい人間だ(ちなみに後者の指導員はスパルタなだけで、それほどエラそうな感じを出してはいなかった)。

ぼくは「エラそうな態度やなぁ」と相方に指摘されたときに、「ショボいヤツですみません!」と謝ることが時々ある。エラそうなヤツもショボいヤツであることを自覚していれば、ちょっとはマシになるかもしれない。

そもそも、エラそうなショボい人間は、他人に何かを教える資格がないだろう。ところが、この世の中、自分を人間的に十分に成長させていける環境が整っていないので、本当に偉い人間にはなれずにショボいままで、自分のショボさの裏返しでエラそうにする人間があふれかえっている。
表面的な技術を伝達していくには、まだショボい人間が何かを教えることが必要な場合もあるだろうが、せめて教えている瞬間には、エラそうな自分を引っ込めて、相手が気持ちよく学べるように努力すべきだろう。


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by 硲 允(about me)
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