何をどこまで深めたいか?

買って消費するばかりの暮らしを見直し始めてから、逆に、何でも自分でし、何でもなるべく一からつくりたくなって、したいことだらけになった。

野菜やお米づくり、本づくり、家づくり(リフォーム含め)、森づくり、庭づくり、曲づくり、文房具づくり、家具づくり…。東京のアパートから香川の古民家に移住してから、一気に範囲が拡大した。

いろいろ手を出してみて気づいたけど、一人の人間の体力と時間には限界がある。野菜やお米をつくるとなると、春から秋は畑仕事に追われ、それだけでも時間と体力をずいぶん使う。冬になって畑仕事が減ると、何でもできる気になるんだけど、春が来ると、畑仕事を間に合わせるので精一杯の日が増え、畑仕事が間に合っていればとりあえずOK、ということになる。

自給自足に近い暮らしに憧れ、何でも自分でやろうとすると、疲弊して、結局どれも中途半端にしか楽しめなくなるリスクもある。何事も「楽しめる範囲で」というのが、最近の心掛け。そのためには、どこまでが自分の「楽しめる範囲」なのかを探っていく必要がある。

先日、高松の「まちのシューレ963」で、陶芸家 小野哲平さんと布作家 早川ユミさんの2人展「土がある。布がある。それぞれの旅。」が開催され、参加してきた。最後のほうで参加者の質問に答えてくれて、ぼくはいろいろやりたいことがあり過ぎて困っている、という話をした。小野哲平さんは、「どこまで深めたいか?」という問いを立てられた。ご自身は、作陶を「どこまでも深めていきたいね」と話されていた。

以来、「どこまで深めたいか?」というのは、ぼくの中で重要な指標になっている。いろいろしたいことがあっても、中にはたいして深めたい気がしないものもある。そういうのは気楽に、そのとき楽しめる範囲でするのがいいだろうと思う。一度始めたからといって、勘違いして深めていっても、実はそこまで興味がなかった、とあとから気づくのでは無駄が多い。

「どこまで深めたいか?」と自分に問うと、そういえば最近は何かを技術的に深めたいということが減ってきたなぁと気づいた。昔は英語とか、通訳技術とか、論理的思考とか、文章による表現力とか、自分の中で常に何か一つはあった。今も文章を書くのは好きだけど、「文章力」を高めたり深めたりしたいとは思わなくなった。そういう気持ちが自分の中にあると鼻につく文章になることがわかり、文章の技術へのこだわりを捨て去ろうとしてきた。人間として深まりたい、人間として高まっていきたい、とも特に思わなくなった。そういうことを目指していると、余計に気持ちがギスギスしてきて、かえってよくないようにも思う。人間として堕落していくのは避けたいけれど、気づいたらちょっとはマシな人間になっていた、というくらいがちょうどいいような気がしている。

技術でいうと、最近始めた「骨法」は深めていきたいと思っている。だけど、求道的になるのではなく、楽しく、気楽に、マイペースで。

深めたいものはほかには、日々の暮らしの楽しさ、面白さ、愉快さ。じんわりとした楽しさを深めるには、のんべんだらりんとラクして遊んでいるだけでは難しい。他人とどう関わっていくかも重要。やりがい、生き甲斐、といったものは、自分一人だけではなかなか生まれないものだと思う。

何をどう深めたいかは、人それぞれで、いろんな人がいるから面白い。


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by 硲 允(about me)