焼き芋を食べながら。


軽トラで外出中、家に還るのが予想以上に遅くなり、お腹が空いたので焼き芋を買おうと駐車場の広いスーパーに寄った。

駐車場が広いといっても、車同士がすれ違うにはぎりぎりのスペースしかない。店に近い場所が空いていたので、そこに停めようとしたが、前から車が来た。バックでそこに停めることもできたが、その車を待たせることになるので、すれ違えるようにもう少し前に進むと、その車はぼくが停めようとしていた場所に入った。そんなことはよくあることなので、いちいち腹を立てると損である。周りを走る車の動きを見ても、運転手の意図が読めないのか、読もうともしないのか、自分さえよければいいという動きをする車が多い。

店に入ると、眩しいほど黄色い焼き芋が、人工的な石焼き芋の機械の上で熱々になって待っていた。いかにも最近になって品種改良(改変)したような名前が付けられていたが、お腹の緊急事態にはそんなこともいっていられない。紙とビニールでできた袋に入った焼き芋は、どれも小ぶりなのが二つ入り。相方と一つずつ食べようと思って、一袋手に取った。

車に戻って、車窓からの景色をなんとなく眺めながら焼き芋を囓る。駐車場の思いやりゾーンに、高級そうな車が並んでいる。そのうちの一台の持ち主である金髪の兄ちゃんがポケットに手を突っ込んで煙草を吹かしている。「思いやり」が与えられる資格のある車であることを示す札を車内に吊るしているが、煙草の兄ちゃんが当人ではなさそうだ。子ども二人を連れ、買い物を終えた母親が戻ってきた。つまらなさそうな顔をした少年はお父さんそっくりだった。

小さな子ども二人を連れて、別の家族の母親が歩いているのが目に入った。またしても金髪で、くるくる巻いている。手に持つ透明のビニール袋には、インスタントの焼きそばらしきものが家族分入っていた。くるくるの金髪は手入れも大変だろうと思った。手間をかけるところがおかしいと思った。今はまだ健康そうに見える子どもたちがちょっと気の毒に思えた。

「思いやり」を与えられる資格のなさそうな中年の男性が店から戻ってきて、車に乗り込み、去って行った。自分さえよければいいという行動をする人間はこういう顔をしているのか、と学習しようとした。

焼き芋を食べ終わり、車のエンジンを入れて駐車場から出ながら、「お金をたくさん稼ぐ人が偉い」という世の中の概念について相方と話した。お金を多く稼ぎ、立派な車や家や装身具を得た人間はなんとなくステータスを得た気になり、周りからもそんな目で見られる、ということは今の時代にもあるのだろう。お金をたくさん稼ぐ人が、世の中で(表面的だとはいえ)尊敬される、というような考え方があるということをそういえば忘れていた、ということに気づいてちょっと面白く思った。普段、ぼくらがお付き合いをさせていただいている仲間うちでは、そういう物差しが使われていない。どれだけ稼いでいるか、よりも、何をしているか、どんな想いや気持ちでそれをしているか、あるいは、もっと根本的には、どんな人間であるかが重視されているように思う。お金をたくさん稼いだり、いくら世間的にステータスや表面的な尊敬を得ても、人間としての精神的成長や成熟につながらないのであれば、そんな仕事は忌むべき仕事だと思う。

かといって、今の世の中では、お金をある程度稼いでいかないと困ったことになる。お金がなさすぎると暮らしに困って気持ちがすさんでいて余裕がなくなりし、生存すら危うくなる。人間らしい暮らしをするために最低限必要なお金は何らかの方法で得る必要がある。とはいえ、お金のために魂を売ってしまっては本末転倒である。魂を売らずにこの世の中でお金を得ていくのは、なかなか、というよりも、ずいぶん難しい。かといって、工夫をこらし、そこに至るまでにある程度の時間をかければ誰にでも不可能ではないと信じている。ぼくはこの10年くらいをかけて、その方法を模索してきた。そういう人が少なくとも自分の周りでは増えてきている。お金のコントロールから逃れ、お金のためではなく、自分の心の声を聞きながら定めた目標や目的、あるいは自分の本当の楽しみや喜びのために生きる人が増えれば、もっとまともな世の中になるだろうと思う。


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by 硲 允(about me)