文章というのは、どんな相手を想定するかによって、トーンも内容も変わってきます。
手紙やメールやSNSのダイレクトメッセージでは、特定の相手に宛てて書きますが、ブログやSNSのタイムラインなどに書く場合、不特定多数の人の目に触れるわけですが、どんな相手を想定するかは、人によって異なります。
多分読んでくれているであろう友だち。会ったことがないけど、時々コメントをくれる人たち。ときどき反論してくる見知らぬ人たち。検索などでたまたま訪れる人たち。いろんな人が想定でき、そうした人たちをひっくるめて漠然とした相手に向かって言葉を発することになります。
コメントやメッセージや「いいね」などの反応が返ってくることもあれば、何の反応もないこともあります。
よくリアクションをしてくれる人のことは、書きながらも頭に浮かびやすくなりますが、リアクションがなくてもしょっちゅう読んでくれている方もいるものです。
ブログの場合、特定の誰かを具体的に頭に思い浮かべると、「遠慮」が働いて書く内容に自分で制限をかけてしまいそうなので、ぼくの場合、なるべく具体的な相手は想定しないように心がけています。
とはいえ、読んでくれている方への配慮、というのも大事だと思っています。
「こんなことを書くとあの人はどう思うだろう」というような思いが、書きながら浮かんでくることもあります。無意味に他人を不快にしたり怒らせたりしたくないと思っているので、読んでくれた方がどういう気持ちになるかをできるだけ想像しながら書くようにはしています。
その辺の微妙なバランスをとりながら書くのはけっこうエネルギーが要ります。でも、自分の書いた文章が、思わぬ不幸な結果を招く、というようなことは避けたいので、慎重にならざるを得ません。そういう慎重さをもって書かれた文章というのは、人によっては、どこかもの足りないと感じる場合もあると思います(もっと生のままぶつかってきてほしい!という感じで)。そこは、人それぞれ、何を優先するかでしょう。
誰かの目に触れるところに文章を書くと、自由に書いているつもりでも、知らず知らずのうちに何らかの制限が働いているものです。ときには、誰かに見せることを想定していない自分のノートに書いてみると、何らかの発見があるかもしれません。
ぼくは一時、自分を深く見つめ直したいと思う時期があり、当時は毎日のようにノートに思ったことや考えたことを書き綴っていました。今見返すと、ずいぶん狭い世界に閉じこもっていたなぁという気もしますが、そのおかげで、外に向かって文章を発信していく土台ができたようにも思います。最近はノートに向かっていませんが、時々は自分の内側へ向かうような書き方もしたいと思っています。
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