自分の言葉が他人を傷つける(怒らせる)ことについて


先日、あるラジオ番組を聴いていた時のこと… DJの方がある音楽に対してネガティブな発言をしたところ、それをラジオで聞いて「傷ついた」というリスナーからのお便りがあり、DJの方は謝罪されていた。

これを聞いて、自分が好きなものを好きでない(嫌い)と言われることに平気になる訓練(?)の重要さを改めて思った。

考えは人それぞれ、感性も人それぞれ。自分と他人は別人格。自分が好きなものを他人に好きになるように求めることは、裏を返せば(回り回って)、他人が好きなものを自分も好きになるように求められることである。

自分がこれが好きで、相手もこれが好きなら「いいよね!」と共感が生まれる。自分がこれが好きで、相手はこれが嫌いなら「なんだと!」と怒りと不信が生まれるのではなく、「そうなんだ」と理解と想像力が生まれる世の中のほうが生きやすいのではないか。

誰かを怒らせたり傷つけたりしたらいちいち謝罪しなければいけないのなら、何も言えなくなってしまう。自分の考え方や感じ方と異なる人間はいくらでもいる。全員が賛成してくれることしか言えないのなら、言論空間はとんでもなくつまらないものになる。「今日は暑いですね」と言ったとしても、「そうですね」となる人もいれば、「暑いなんて言うから余計に暑く感じるんだ!」と怒ってくる人も時々はいるだろうし、「暑いといっても、去年ほどじゃないですよ」とちょっと理屈重視でひねくれた人もいるだろうし、「今年は打ち水とすだれでだいぶ過ごしやすくなった。来年はあそこの庭木の剪定をこうすればもっと涼しく…」とひたすら解決志向型の人もいるだろう。どんな反応がかえってくるかわからないのが面白くもある。

とはいえ世の中、人間性を失わせるようなもので溢れかえっているためか、信じられないようなリアクションを返してくるような人間もいるものだ。自分の発言がどんなリアクションを生み出すか、ある程度予測しておかないと、とんでもない結果に巻き込まれることになるので、結局、微妙なラインで、自分の言いたいことを言うことになる。


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by 硲 允(about me)