「インスタ映え」にうんざり? SNSはそろそろ次の段階へ…


「インスタ映え」という表現を初めて聞いたとき、気持ちのわるい言葉だと思った。

みんな、ある種の皮肉を込めてこの言葉を使っているのだと思ったら、外出先で周りの人の話を聞いていると、どうやら本気で「インスタ映え」を目指して、「インスタ映え」する写真を撮ろうとがんばり、「インスタ映え」という言葉にネガティブな印象をもっていないようだと知って意外だった。

ところが最近は、「インスタ映え」という言葉がうんざりした調子で言われることが増えてきたようだ。

みんな「インスタ映え」する写真を撮るのにも疲れたり飽き足りして、他人が撮った「インスタ映え」する写真を毎日見せられるのにも飽き飽きしてきたのかもしれない。

FacebookやTwitterでは、センスのいい写真や美しい写真を投稿しなければ、というプレッシャーはあまりないと思うが、インスタの場合、プラットフォーム上にそういう暗黙のプレッシャーが働いている。それは強制的なものではないが、空気を読んだり場の雰囲気に合わせたりしているうちに、それぞれのSNSごとに、同じ人でも少しずつ(あるいはかなり)違ったキャラができあがっていく。

いろんなSNSがあるが、インスタは特に精神的に病みやすい、という話を聞いたことがある。みんなが「インスタ映え」する写真を投稿するので、周りの人がみんな楽しそうだったり、おしゃれな暮らしをしていたり、センスのいいモノに囲まれていたりしているように見える、というのもあるかもしれない。実際には、おしゃれな料理写真が投稿されていても、カメラに映らないところはぐちゃぐちゃだったり、休日におしゃれスポットにでかけてセンスのいい服を着ていても平日は残業続きでぼろぼろのゾンビ状態だったりするかもしれないのに、「インスタ映え」しない日常はタイムラインにはなかなか流れてこない。他人の虚構を見せられるのと同時に、自分の虚構をつくり上げなければならないことも疲弊の原因だろう。

SNSで見せている姿は、自分の一部や自分の暮らしの一部を意図的に切り取ったものでしかない、という認識が、インスタのおかげで高まったのだとも思う。

Facebookにしても、最初は無邪気に「いい」と思ったものに「いいね」を押すユーザーが多かったと思うが、「友達」が増えるにつれて、「いいね」を押すのにも慎重になっているユーザーが増えてきているように思う。あの人の投稿にはしょっちゅう「いいね」を押しているのに自分の投稿にはめったに押してくれないとか、こういう投稿には「いいね」を押してくれるのにこっち系の投稿には「いいね」を全然押してくれないとか、そんなことを思ったり、他人もそんなことを思っているのではないかと想像しているうちに、疲れたり面倒になったりして、最近は、一応はタイムラインをチェックしていても「いいね」をほとんど押さないユーザーが増えているような気がする。

「いいね狙い」とか「インスタ映え」とかをしてみたり誰かがしているのを見たりしているうちに、そうした意図に敏感になり、利己的な意図に対する嫌悪感も高まっていっているように思える。そうした意図をなるべく排除するように努めたとしても、Facebookは既に書けば書くほどうんざりされ、本当の「友達」が減っていくメディアになりつつあるように感じる(ぼくの被害妄想かもしれないが)。

SNSの使い方は、次の段階に来ているのかもしれない。

これまでは、目的や意図を明確にせず、流れるまま、流されるままに、誰かの興味を引きそうなものを載せたり、珍しげなものや面白いもの、きれいなものをポンポンと投稿して「いいね」をもらって何となく気分よくなっていられたかもしれないが、その背後でもっとダークなものが渦巻いているのをみんなが薄々気づいている。

そうしたなかで、わざわざSNSを使う意義とは何なのか? 何のために使うのか? 他人はどうあれ、自分はどのように使うのか?

一人ひとりが出す答えによって、これからのSNSの世界がどうあるかが決まってくる。10年先はおそらく今とはずいぶん違う使われ方になっているだろうと思う。


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by 硲 允(about me)
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