「自己満」の限界

ぼくはどちらかというと、「自己満」、つまり「自己満足」を追求してきた人間である。

他人が何と言おうと、何を思おうと、自分が満足できない人生を生きれば、あとから後悔すると学生の頃から思っていた。そういう後悔を恐れていた。


高校生の頃、英語の勉強が好きになり、一生、思う存分に英語の勉強ができればそれで幸せだと思っていた。大学生の頃、英語以外にも関心が広がり、英語とともに世の中のいろんなことが勉強できる通訳の仕事に就こうと思った。一生、自分の興味のあることを勉強しつづけ、英語のスキルを高めることに挑戦し続けられれば、それで幸せだと思っていた。

このまま努力を続ければ、そういう人生を生きることが可能だと思った。しかし、そんな人生を具体的に思い描けるようになると、それが幸せな人生だと思えなくなってきた。

「仕事のために自分の暮らしを犠牲にしたくない」。そんな想いが前々からあった。

英語の勉強をして自分のスキルを高めていくことは喜びだが、勉強自体はあまり楽しくない。英語の道を極めるには、一日の多くの時間を英語の勉強に充てる必要があるが、ぼくはそういう暮らしを望んでいないことに気がついた。

ぼくは目標を見失った。

あるとき、志賀直哉の小説を読み、そこに描かれている暮らしをうらやましく思った。好きなときに寝起きし、行きたい場所へ行き、会いたい友に会う。そんな日常の暮らしを題材に作品を書く。

それから3、4年。

気がつけば、ぼくもそれと似たような暮らしを送っている。好きな時間に起き、気の向いたときに田畑に行き(田植えのときや夏の草の盛んなときはそんなことを言っていられないが)、月に数回、森林活動に出掛け、ときどき、気の合う友人たちと食事会をする。そんな日常をもとに小説やブログを書き、空いた時間に翻訳の仕事をする。気ままな暮らしである。

自分の好きなことを追い求めていたら、こんな暮らしになった。しかし、最近思うのは、「自己満」の喜びには限界があるということ。どんなに美味しい料理でも、自分独りで食べると寂しくてもの足りない。田畑の仕事がどれだけ楽しくても、育った野菜や米を食べるのが自分一人しかいなかったら、田畑に向かう気力が出てこないと思う。小説を書くのは苦しい作業である。書き終えたとき、やり遂げたという満足感を感じるが、読んで喜んでくれる人がいなければ、こんな面倒で苦しいことはしないだろう。

「自己満足」と「他者の満足」はつながっている。誰から喜んでくれるのを見れば、自分の喜びや満足感も高まる。「自己満足」だけを追い求めても、結局は小さな満足しか得られないのではないかと思う。かといって、「他者の満足」を得てようやく「自己満足」を得るというのでは、「自己満足」を他人頼り、他人任せになってしまう。自分が満足するのと同時に、他人の喜びにもなる道を行かなければならないと思う。

そして、この「満足」とか「喜び」というのが、その場かぎりのまやかしであってはいけない。「幸せ」という言葉を使ったほうがいいかもしれない。

美味しい料理を食べて、「あぁ、幸せ」と誰かが言うのを聞いたことがある。自分独りで家で料理を食べて、「あぁ、幸せ」と言う人はいるだろうか。幸せとは誰かと分かち合うものなのかもしれない。

宮沢賢治の有名な言葉を思い出した。

「世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない」


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by 硲 允(about me)
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