アナスタシアと小説、そして芸術のこと

アナスタシア シリーズ第5巻「私たちは何者なのか」は実話として書かれていて、ぼくもそのつもりで読んでいますが、読んでいて、その章だけ切り取って短編小説として読んでも非常に美しく、完成度が高いと思う場面がありました。

特にそう感じたのは、車いすに乗り、息子たちに与えられた豪邸で死んだように生きていた哲学者、ニコライ・フョードロヴィッチがアナスタシアの本を読んで生き甲斐を取り戻す章(「生の哲学」)です。ニコライ・フョードロヴィッチが、自分の生きている間に美しい世界が出現するのをその目で見たいと願い、不自由な身体であってもその世界を自ら創っていこうとする強い意志や、そんなニコライ・フョードロヴィッチに密かに恋していた家政婦のガリーナの心情が美しく描かれています。何度も読みたくなり、何度読んでも色あせない美しさと心地よさを感じました。

「我われの実情」という最後のほうの章では、娼婦や乱暴な男たちが現れ、著者のウラジーミル氏が危機に陥るスリリングな話で、この本をファンタジーとして読んでいる人でもハラハラさせられるストーリーだと思います。この先どうなるのかとこんなにハラハラしながら何かを読むのは久しぶりのことでした。

ぼくはここ数年、試行錯誤しながら小説を書いてきましたが、この本は、小説を書く上でも非常に参考になる本だと思いました。並大抵のつくり話にはないエネルギーがあります。読んでいて引き付けられる力があります。人間の生き方、人間や宇宙の本質について得られる智恵があちこちに溢れています。ぼくが書きたいのはこういう類のものだと思いました。自分と他人の作品を比較すると何も書けなくなってしまうので、ぼくは自分なりに、自分の力を尽くして作品を生み出していきたいと思っています。

アナスタシアは、筆を手にしてキャンバスに風景を書くような人ばかりが芸術家ではないと語っています。生きた材料で創造した美しい景色は、絵画と同じように、みる人にポジティブな感情を呼び起こし、目を愉しませるだけでなく、もっと多機能で空気を浄化したり人間の肉体に栄養を与えたり、キャンバスに描かれた絵画とは比べられないほどに有意義だと言います。

ぼくは文章を書くことを自分の中心的な仕事にしようと決めましたが、書いてばかりいる暮らしでは満足できず、それに、書いてばかりいる暮らしではろくなものが書けないことを感じています。この世界、この宇宙がキャンバスだと思って、もっと自由に、もっと楽しく、自分の心のままにいろんなものを創造していきたいと思います。

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by 硲 允(about me)
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