「オープンダイアローグとは何か(斎藤環)」という本を読み、先日これについて記事を書きましたが、この本を読んで以来、「ダイアローグ」と「モノローグ」について頭のななかでいろいろ思いを巡らせています。
「ダイアローグ」と「モノローグ」を大和言葉に訳すとすれば「対話」と「独白(独り言)」などでしょうか。厳密な定義は難しいところですが、ぼくがこの二つを考えるとき、「ダイアローグ」は自分の思考や気持ちが「外」に向かっていくイメージ、反対に「モノローグ」は「内」に向かっていくイメージで捉えています。
誰しも、気持ちがどちらかというと外に向かっているときと、内に向かっているときがあると思います。外に向かいやすい人と、内に向かいやすい人があり、ぼくは後者です。
仕事柄、他人と接する時間も比較的少なく、机に向かっていることや田畑に一人でいることが多いので、物理的に誰かと会って対話することは、相方以外にはそれほど多くありません。それでも、東京にいた頃よりは他人と接する機会が増えました。
最近思うのは、人間、精神的な安定を保つには、「ダイアローグ」と「モノローグ」の適度なバランスや、両者の適度な行き来が大事なのではないかということです。
他人と接することなく「モノローグ」ばかり続けていると、他人と会うのがだんだん億劫になり、会うと必要以上にストレスを感じることがあります。逆に、「ダイアローグ」ばかり続けていると、他人に合わせたり流されたりしているうちに、自分の心の声が聞こえにくくなってしまうことがあります。
人間というのは、自分を騙しだましその場をやり過ごすことができるように見えて、 そうした無理は知らず知らずのうちに自分の奥深くに蓄積されていくようで、限度を超えると、心身の病という目に見える形で表に現れてきます。
大きな病となるまで放置せずに、身体と心のちょっとした風邪程度で日頃から毒出ししておくのも大事でしょう。
他人と一緒にいすぎて疲れた、というときは一人になってみたり、一人でいすぎて他人と接するのが億劫になってきたり頭の中で仮想敵が現れてきたりしたら、気の合う友だちと一緒に時間を過ごしたり。自分の気分に従う、というのも大事かもしれません。今日は出掛ける予定が入っているけれど一人でいたいな、と思ったら予定をキャンセルしたり、 一人でいるともやもやしてきて不安になってきて、外に出たくなったらどこかへ出掛けたり。
「モノローグ」と「ダイアローグ」というのは、他人といるか一人でいるかといった物理的な形式よりも、気持ちの持ちようが大きいようにも思います。会話していても「あの人は人の話を聞かずにマイワールドだね」という感じの人は、誰かといても「モノローグ」の傾向が強いのでしょう。一人で過ごしていても、誰かに手紙を書いているようなときは、「ダイアローグ」の傾向が強いように思います。
ブログを書くにしても、「モノローグ」的に書く人と、「ダイアローグ」的に書く人がいます。 ぼくは「ダイアローグ」の不足を補うためにブログを書いているところもあるので、「ダイアローグ」的に書くことを心掛けているのですが、自分の性格上、「モノローグ」寄りになりがちです。
「ダイアローグ」と「モノローグ」、みなさんは普段どのように意識していますか?