文章というのは、どこでどうやって書くかによって、思いのほか、異なってきます。
最近、ブログに書いた記事をほとんど全部facebookに投稿しはじめたので、ブログの文章にもその影響が出ていると思います。
それ以前も、twitterには投稿していましたが、facebookの方がオフラインでの知り合いが多く、リアクションをいただくことも多いので、顔の見える相手を想定しながら書くことになります。
だからといって、書きたいことを遠慮して書かないわけではないのですが、読んでくれる方の気持ちを察する結果、文章に「キレ」がなくなってくる傾向があります。
トゲのある書き方をすると、トゲのある反応が返ってきがちなので、トゲを丸くしてしまいがちです。トゲのある文章が好きな人にはもの足らないかもしれません。
SNSに投稿するにせよ、しないにせよ、誰でも見ることのできるウェブ空間に文章を発表する場合、誰に見られても構わない文章しか書きませんが、SNSでシェアするとなると、「どうぞ読んでみてください」というメッセージが入ってくることになるので、やっぱり違ってきます。
文章というのは、その内容だけでなく、それをどういう形でどこで発表するによっても、その文章のもつ意味合いを左右されます。
と書きながら、宮沢賢治の「雨ニモマケズ」を思い出しました。これは、宮沢賢治が自分の手帳に書き留めていた文章です。どこかで発表するかどうかは別として、ふと舞い降りてきた言葉をメモのように書き留めたのだと思います。そういうものだという前提で読むのと、詩集のように作品としてつくったものの一つとして読むのとでは、読んだときに感じ取るものが違ってくるでしょう。
宮沢賢治の例を持ち出すのは大げさかもしれませんが、これからしばらくは実験的に、SNSに投稿しない文章もブログに書いていこうと思います。
SNSに投稿する前提で書くからこそ書ける記事もあれば、投稿しない前提で書くからこそ書ける記事もあります。自分が書きたい文章を自由に書き続けるために、いろいろ試していきたいと思います。
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