手製本のいいところは、文章の隅々まで納得いくように仕上げられること



相方と一緒に手製本をつくっていますが、出版社を通さずに本をつくることのメリットの一つに、文章の隅々まで自分の納得いくように作れる、ということがあります。

出版社から本を出すと、編集者が文章に赤を入れるので、最終的に著者には不満な表現や内容のまま出版される可能性もあります。

小説ですら、編集者が赤を入れまくって、作家がもともと書いた文章がほとんど残らなかった、というような話を何かで読んでびっくりしたことがあります。

もちろん、誰だって知らないことや間違いはあるので、それを他の人に指摘してもらうことは重要ですが、編集者が他人の文章を書き換えまくったら、作家の作品に編集者の感性や主張が入り込むことになります。編集者の指摘を受けて、作家が自ら書き直すのがいいと思います。

言葉の選び方や、語尾などの微妙なところに、書き手の心が宿るものです。

例えば、こんな文があったとします。

「20年前から友人として長らくお付き合いをさせてもらっているAさんのお宅に昨日お邪魔してきました。昔から変わらぬ人生に対する彼の意欲に、こちらももう一踏ん張りしてみようと、そういう想いがいたしました」

これを、無駄の多い文章だといって、下のように書き換えたらどうでしょうか。

「昨日、20年来の友人であるAさん宅を伺いました。彼の人生に対する意欲は昔のままで、こちらももう一踏ん張りしようと思わされました」

たしかにすっきりしますが、書き手の人柄というのが違って見えないでしょうか?

語彙の選び方には、その人がそれまでの人生でふれてきた言葉や言語活動における蓄積が現れ、その人の人柄や性質がにじみ出るものです。そういうことが特に大事な小説やエッセイで、もとの文章がなくなるほど書き換えてしまえば、もはや別の人の作品となってしまいます。

読者の誤解を招いたり、理解不能な文章だと困りますが、「模範解答」的なすっきりとした無駄のない文章にしようとすると、味わいが薄れ、書き手の意図や心持ちが伝わりにくい文章になってしまうおそれがあります。

逆に、もとの文章になかったような味わいやニュアンスを付け加えるならば、それは作家自身の作品というよりも、共作のようなものに変化します。

実際、自称編集者の方が、あるブログ記事に勝手に赤を入れて、もとの文章がいかにダメかをネットで書いていたのを見たことがありますが、書き手の文章を尊重せず、そんなふうに直したらすっきりはするけれど別人の文章になってしまう、というようなものでした。

もちろん、優秀な編集者であれば、作家の持ち味を一層引き出すようなコメントや赤入れができると思いますが、そういう編集者ばかりだとは限りません。

atelier makotomoの本の場合、基本的に、ぼくが書いた文章を相方にチェックしてもらい、それを受けて書き直す、という作業を何度も繰り返しています。誰かに指摘されて初めて気づくことというのは多々あるので、自分で本をつくるにしても、信頼できる誰かにチェックしてもらうことは大事だと思います。指摘を受けるのは、自分でももう一踏ん張り足りなかったと薄々感じている箇所であることが多いです。侃々諤々の議論になることもありますが、最終的には二人とも納得できる表現が見つかるものです。


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by 硲 允(about me)